大人のドラクエ

 RD潜脳調査室を視聴していると思わず「あいつら……太ましいくせに無茶しやがって……」などとつぶやきながらうっすら笑うキモい人間が書いているブログがここですよ。

 インターネットにおいてなんだかんだでキモいことを書いているうちに気がつけば8年が経過しておりました。
 8年。8年!
 思わず二回表記するほどに、それは長い年月ですよ。
 生まれたばかりの子供が言葉をおぼえ、小学生になり、九九とかを勉強し、自らの母親に「くそばばあ」「ズペタ」「ビールとセックスは生に限る」などという雑言を吐き始めるような年月です。

 そんなにも長い年月の間、俺はなにをしていたか。
 愕然とするほどになにもしていねえ。
 もう、びっくりするぐらいなんら世界に影響を及ぼしていない人間がここにいましたよ。


 ドラゴンクエスト風に記すならラダトームの城とすぐそばのラダトームの町の間を延々と往復している感じというか。
 たまにスライムとか、スライムベスと戦う。城で買った棍棒でやつらを殴る。
 困ったことにスライムを殴っても殴っても、倒しても倒しても俺のレベルは上がらなくて、ホイミすらもおぼえられなくて、それでも戦えばヒットポイントはきちんと減っていくのでどうしても町から遠くへは行けないことに気づく。

 ラダトームの城の隅っこにいる爺さんに話しかけると「勇者に光あれ!」とマジックポイントを全回復してくれたのをおぼえている。
 でも俺は勇者なんかじゃなくって、ただラダトーム周辺をうろうろするだけの人間だった。
 光あれ、なんて言われて画面がフラッシュしても、レベルが上がらずマジックポイントがもとよりゼロの俺にとってはまったく無意味だ。
 無意味な光だ。

 ヒットポイントを回復させるには宿屋に泊まらなければならない。
 幸い、スライムを殴って得たゴールドがあるので宿代ぐらいにはこと欠かない。
 だが、ラダトームの町の宿屋の主人は、いつまでも同じところをうろうろするだけの俺に対して次第に不信のまなざしを向けてくる。基本的に宿屋は世界を救う勇者のための宿泊施設だ。
 気の小さい俺は、だんだんと主人の視線が苦痛になる。 
 最初は、期待のまなざしだったのが次第に疑惑、失望そして諦観へと変わる。
 あげくのはてには、俺が泊まりにくるたび、あからさまなため息をつくようにすらなった。
 とうとう俺は耐えられなくなり、いっさい宿屋には泊まらなくなる。

 宿屋で回復できない俺は、道具屋で薬草を購入する。
 宿屋に泊まるより割高で非効率的だが、俺は薬草を買って誰もいない路地裏でもりもりと食する。
 人目を忍んで食べる薬草は、ひどくにがかった。

 そんなふうにしてラダトーム周辺をうろうろしているうちに数年がすぎた。
 ある日、例の「光あれ」の爺さんが、別の若者に「光あれ!」と言葉をかけているのを見かける。あのジジイ誰にでも言ってやがんのかよと憤るも、どうやらその若者は本物の勇者らしいことに俺は気づく。その光によってマジックポイントを回復し、仲間の僧侶だか踊り娘だかにべホイミをかけてやっているのを俺は目撃する。
 仲間。
 彼には旅の仲間がいた。
 回復魔法をかけたりかけられたりする仲間がいたのだ。

 そして勇者ご一行は、おもむろにトヘロスを唱えてきらきらしたオーラの光を放ちながらルーラでどこか遠くへ飛んでいった。
 ラダトームのむこう。どこか俺の知らない遠くの地へ。

 俺はそれを見上げる。
 彼らが小さな光になるまで、ずっと見上げ続ける。
 そんな俺の姿を、「光あれ」の爺さんが静かに見つめている。
 俺は爺さんから目をそらして、その場を離れる。
 またラダトームの町と城の、何ドットか分のはざまを彷徨する。

 よくよく見れば、まわりには俺以外の勇者候補が大勢いることに気づく。
 俺は勇者じゃなかったが彼らは違う。
 ホイミを唱えることができるのはもちろん、心強い仲間が何人もおり、ラダトームからはるか遠くまで旅をし、スライムなどとは比較にならない強大な敵と戦っている。
 中には、あの伝説の「ぱふぱふ」を体験した者すらいる。
 本当かよ。
 俺は羨望する。にがい薬草を噛みしめながら。

 さらに数年が経過した。
 ある日とつぜん、町周辺にスライムがいっさい現れなくなった。
 異変である。
 さしあたって俺は、薬草代を稼ぐことができなくなり困ったなと思うが、そもそも敵が出ないのでたいして困らないことにすぐさま気づく。

 敵が出ないなら遠くへ行ってみてもいいのではないか。
 俺は決心する。
 小さな決心であり、そして遅すぎた決心だ。

 俺ははじめてラダトームから離れ、橋を渡り、別の町へと旅をする。
 棍棒は売った。はじめから装備していた布の服も売った。
 全裸だったが、さしあたっては困ることなどなかった。

 俺はとある洞窟に入り、番人であるドラゴンが倒され牢屋がもぬけの空であることを確認する。
 すでにローラ姫が誰かに助け出されたことを知る。

 もしやと思い俺は竜王の城に向かう。
 竜王の城へはすでに虹の橋がかかっており、誰もが行き来できる状態になっている。
 やはりというか当然というか、竜王はすでに勇者によって倒されていた。
 いつの間にか世界は勇者によって救われていた。
 俺はしばし呆然とする。
 道具袋の中に最後に残っていた薬草をかじり、そのにがさを噛みしめる。

 平和になったアレフガルドで、すなわち目的の失われた世界の中で、それでも俺はまだ終わらないゲームの中にいる。
 何のために?
 町の人間たちは誰もが皆、プログラムされたように「勇者ばんざい」とだけしゃべっている。
 たくさんいたはずの勇者候補たちは、いつの間にか誰もいない。

 俺は世界のあちこちをうろうろし、やがてラダトームへと帰ってくる。
 何年かぶりのラダトーム。
 俺に疑わしげな視線を向けていた、あの宿屋の主人までもが笑顔で祝福の言葉を口にしている。
 勇者ばんざい。
 俺ではない誰かに対して。誰もが偉大な勇者を祝福している。
 薬草を売っていた道具屋の親父も同じだった。
 もう薬草は売ってくれない。売る必要もない。そもそも俺はもうゴールドを持っていない。
 俺はいたたまれなくなってその場を離れる。


 気がつくと、あの爺さんがいた。「光あれ」の爺さんだ。
 皺だらけの顔をこちらに向けて、静かに俺を見ていた。
 そして言った。
「そなたに、光あれ」と。
 勇者ではないはずの俺に向かって。画面がフラッシュする。

 おそらくそれは、ありえないはずのことだった。
 単にボケていただけかもしれない。きっと誰にでもこの言葉を言うのだろう。
 それでも気がつけば俺はその場にひざまずき、両の目から涙を流している。
 マジックポイントではない、心の中のなにかが少しだけ満たされ、癒されるのを感じている。
 世界が明滅している。
 そのまぶしさに俺はしばし目を閉じる。



 8年かー。

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クリスマスデイ

 明け方までリトルバスターズ!をプレイし続け、目覚めたら昼を過ぎていた。
 いつもながらkeyのゲームに出てくるキャラクターはおもしろおかしいなあ。きらきらしてるなあ……などと思いつつ、彼らの学園コメディぶりに一喜一憂しているうちに寝てしまっていた。

 閉め切った暗い部屋の中で、つけっぱなしのノートPCのモニタが何か尊いもののようにまばゆく光っていたので寝ぼけたまま覗き込むと、そこには苦笑した表情のヒロインの立ち絵と「あはは〜、そうかもしれないですねえ〜」と表示された会話ウィンドウが表示されていた。

 俺の携帯電話は東芝製なので、マスコットキャラ「くーまん」が常時、俺をあの手この手で楽しませてくれる。

「さいきん、誰からもメールが来ないDEFFねえ……」

 心癒され、俺は黙って携帯を閉じ電源をOFFにする。

 街はきらびやかな電飾、人々の笑いと優しさに満ちていて、駅前の何とか堂という菓子屋では、寒そうに足を露出したサンタのお姉ちゃんがケーキを売っていた。

「メリークリスマス。お兄さん」
「やあ。今宵はいい夜だね。その5号のケーキをひとつ」
「お買い上げありがとうございます。でもお兄さん、お一人で食べるには少し大きすぎますよ」
「大丈夫。今夜は特別だから。あと、甘いものは別腹なんだ」
「そうですか。はい、メリークリスマス」
「ありがとう。メリークリスマス」

 店の隅ではいつものチンピラ数人がカード賭博に興じ、カウンターでは派手な柄のシャツの男と嬌声を上げるアル中の女がいて、それなりに楽しくやっていた。
 あんまりに楽しそうなんで、一瞬、俺も一緒に楽しくやれるかな、と思ったりもしたけど、カウンターの隅の、テレビが見える席に座ってマスターにケーキを切ってもらった。

「え、こんだけ喰うの? 一人で? やめときなって」

 俺はウオッカのシャンパン割りを頼んだ後、黙って店の中を見回した。
 カウンターの二つ離れた席で、柄シャツの男が声高に景気の良い話をしていた。女がしきりに「社長、社長」と言っているので、おそらくは社長なんだろう。六本木、ブランドの話、車、株価、そして外国の事業について。
 チンピラは錦糸町のヘルスの話で盛り上がっている。

 俺は静かに、ひたすらケーキをむさぼり喰った。
 テレビには、雪の降る、遠い異国の地の夜が映し出されていた。

「マスター、これ、どこの国?」
「えっ、……うーん、ロシアとかじゃないの。寒そうだね」
「あれ寺院かな。古いけど、暖かい感じがする――」

「なぁオイ、マスター、チャンネル変えてくれよ! 10チャン」

 不意に、女との話題が尽き気味だったらしい社長がマスターに言った。俺と社長氏の目が合った。
 二、三秒の後、彼は顔を歪めて舌打ちした。

「……なに見てんだ、このデブ」
「ち、ちょっと社長!」

 慌てたマスターが、俺と社長の間を遮るように言う。

「いいんだ、マスター。……すみませんね。なんか俺、ウザいでしょう。ケーキ喰ったら帰るよ」
「気持ち悪ィんだよ、さっきから。いい歳こいて、一人でケーキなんか喰ってンじゃねえよ!」
「すみません。社長さん。それとも王様って呼べばいいですか? 会社とか事業とか、金とか女とかって、そういうの全然わからないけど、少し静かにしろよ。俺、今日、ただ静かにケーキを喰いたいんだ」



 フラつく足取りで店の階段を降りて、何メートルか何十メートルか歩いて、道端のゴミ捨て場に向かって嘔吐した。
 溶けかけた、デコレートケーキ。その残骸。
 さらに胃液味のシャンパン。マーブルチップみたいな血も混じっていた。
 脳裏に、鈴の音が聞こえた。どこかで、誰かがベルを鳴らしていた。
 何のために?
 たぶん、他でもない、この俺のために。
 本当かよ?

 その後、何も出なくなるまで何度も何度も吐き続けて、ひどくむせながら、まるで百トンぐらいに体重が増えたような自分の身体を引きずるようにして、家路についた。




……おおむねこんな感じで、クリスマスイブの日は浮かれて過ごしました。
 久々に食べるケーキ超うめー。マジうめー。

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蟹の神

 俺は蟹が好きでも嫌いでもない。
 だから、この仕事を長くやっていられるのだろうと思う。
 俺の人生の大半がカゴいっぱいの蟹を眺める行為で出来ているとしても、それは好き嫌いとは別の話だ。

 あんまり蟹に思い入れを抱きすぎると、たいていろくなことにならない。
 一昨日の夜間勤務において、後輩のジョンス君が蟹の群れを見やりつつ突然、

「天国ってあるんですかね。蟹の」

 などと言い出したとき、俺は「あー、うんハイハイ」とか何とか言いながらジョンス君が蟹が好きでこの職業を選んだことを思い出した。

「ハイハイ、蟹の天国ね」
「あるといいですよね」
「そうかな……そんなもんあってもなあ……。蟹ばっかりなんだろ」
「ええ。きっと善い蟹で溢れかえっているんですよ」
「それなら、そこのカゴの中はすでに蟹天国じゃないか」
「え」

 ジョンス君はカゴを凝視する。
 カゴの中で無数にうごめく蟹。楽しそうにも見える。苦しそうにも見える。
 ジョンス君は首を振る。

「いや、きっとここには悪い蟹も混じっています。天国じゃあない」
「悪い蟹ってなんだ。そもそも蟹に善い悪いってあるのか」
「ありますよ。罪にまみれた悪い蟹もいるはずです」
「えー……」

 俺もジョンス君と同じようにカゴの中の蟹を見る。
 飽きもせず縦に横にとせわしなく小刻みに動いている。元気いっぱいにも見える。疲れているようにも見える。

「いやいや、こいつらに罪なんかねえだろ」
「それを断じることができるのは……神だけですよ」
「蟹の?」
「……ええ、蟹の神」

 とうとう神などと言い出したジョンス君に対し、俺は投げやりに言った。

「じゃあ、お前がやれば。神」
「えっ!……い、いいんですかね」
「いいっていいって」

 俺の口調は果てしなく軽い。
 対照的に、ジョンス君の表情は重い。無駄なほどに深刻な顔だ。
 かなり悩んだ末、ジョンス君は決断した。

「それじゃあ、やろうかな。蟹の神」
「うんうん。今後、履歴書とかにも書いていいよ」

 蟹神様の誕生である。
 俺はもしかしたら、すごい瞬間に立ち会ったのかもしれないが眠かったのでわりとどうでも良かった。

「でも、神って……具体的に何をしたらいいんですかね」
「……さあ……とりあえず見守ってればいいんじゃないか。蟹たちを」
「はあ……そりゃかまわないですけど。蟹、好きだし」
「あとは罪を赦したりするんだろ。蟹の」
「ああ、そうでした。もちろんぜんぶ赦します」

 こうしてすべての蟹は罪を赦され、もれなく蟹天国に行けることになった。
 眠くてよくおぼえていないが。

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気付かなかった愛のこと

 例によって蟹の番をしていたときのことだ。
 冬らしく寒い晩で、シフトの相方はマリー姐さんだった。
 マリー姐さんが蟹用捕獲網を分解掃除しながら、俺の方を見るでもなくつまらなそうに言った。

「私ね、あんたのこと好きだったのよ」
「え」

 とりあえず絶句するしかなかった。この職場においてマリー姐さんは年齢不詳の美女、あるいは美少女で通っていた。あきらかに俺より年下にしか見えないのだが、なぜか誰もが彼女のことを姐さんと呼ばわるのだった。
 そんなマリー姐さんが、実は俺のことを。

「マジですか」
「そう。さっきまでの話だけど」
「なんですか、さっきまでって」
「今から2分23秒前までは、私あなたのこと愛していたのよ」
「はあ」
「残念だったわね」

 なんだそれ。
 悔しがればいいのか悲しめばいいのか笑えばいいのか、それとも怒ればいいのか……俺にはわからず、とりあえず俺は態度を保留することにして会話を繋いだ。

「あのー、今はもう俺のこと、なんとも思ってないんですか」
「そうよ」
「なぜですか」
「私はツンデレだからね」

 意味がわからなかった。
 たぶんこの人は単にツンデレ言いたいだけなんだと思った。
 だんだん俺はどうでもよくなってきた。

「蟹圧が高いみたいなんで、ちょっと籠を見てきます」
「……そうね。お願い」

 俺たちは蟹を見張っている。毎日毎晩、籠の中の蟹を見張る。
 それが仕事だ。
 仕事だから、それなりにいろいろなことがある。
 蟹が逃げ出して徹夜で捕獲作業をしたり、老朽化した籠の修理交換に追われたり、蟹の破片が刺さって怪我をすることもある。
 知らぬうちに誰かに愛されてたりすることもある。
 それに気付かずに得てもいない愛を失っていることすらある。

 籠の確認を終えて管制室に戻ると、マリー姐さんは机につっぷして眠っていた。
 むにゃむにゃいいながら、気持ちよさそうに寝息を立てている。
 職務怠慢もいいところだった。
 舌打ちしつつ、俺は仮眠用の毛布を彼女の肩にかけてやった。その肩が思っていたより小さいことにうっかり気付いてしまい、俺は少しだけうろたえた。

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苦しみよこんにちは

「苦しみよ こんにちは」

 てのひらのそよ風が
 光の中
 き・ら・き・ら
 踊り出したような気がしましたが幻覚でした
 おろしたての笑顔で
 知らない人にも 「たすけて」って言えたの

 日付が変わる前に 帰れなくって
 駅前の路地には 小ゲロが仕掛けられていたけど

 平気 涙が乾いた跡には オーラロードが開かれた
 きらめくひかりおれをうつ
 今度 苦しみが来ても 友達迎える様に嘲笑〈わら〉うわ
 少し扉を 開くだけです
 …きっと 約束よ

 降りそそぐ花びらが
 髪に肩に
 ひ・ら・ひ・ら
 ささやいたような気がしましたが幻聴でした
 飢饉と同じ数の
 一揆や打ちこわしがあるのね 幕府のせいじゃない

 想い出 あふれだしても
 自慰する 気力すらありゃしねえ

 平気 ひび割れた胸の隙間に 世界は核の炎に包まれた
 あの犬のションベンを?
 不意に 苦しみはやってくるけど 仲良くなってみせるわ
 具体的にはパーマンのサブとカバ夫ぐらいには仲良くなってみせるわ
 …だって 約束よ


 歌:斉藤由貴

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奇跡なんかじゃない

 職場で事故があり、予定していた送別会に出られなかった。

 事故は、例によって蟹がらみ。発破系亜種の蟹が混ざっていたらしく、突然網カゴごと蟹どもが爆散した。
 年に何回はそういうことがあるので、蟹を見張る場合は支給品の鎖かたびらを装備することがバイトの俺たちに義務付けられていたが、今日のシフトで入っていたイワン爺さんは、腰が痛むとか言いながら重い鎖かたびらを脱いで大きく伸びをしていた。運の悪いことにちょうどそのとき蟹が飛び散り、イワン爺さんの無防備な腹やら胸やらに蟹の破片が突き刺さった。
 さいわい爺さんの命に別状は無かったが、刺さった破片を抜いたり消毒したり、報告書を書いたり、掃除をしたりしているうちに送別会に出られなくなった。


 送別会は、なじみの同僚の女性のそれ。
 今月いっぱいで仕事を辞め、わりと西のほうにある訛りのキツい故郷に帰るらしいヤマナカさんとの別れを惜しむはずだった。
 彼女の訛りをもう聞けないのかと思うと、がらにもなく寂しさをおぼえる。
 今思えば、彼女の方言混じりの声を聞いて、俺はわりと癒されていた。方言使う娘さんって良いな、と思う。


 帰る途中、ひどい雨だった。
 しばらく前線を離れるイワン爺さんの代わりに、今月はひどい鬼シフトが組まれそうな気がした。
 どうしても気分が落ち込んだ。俺は左手に傘を持ち、右手に遅すぎる晩飯の入ったレジ袋をぶらさげて帰途につく。両手がふさがっていて、ひどく不自由だった。どうにも俺は、自由になれそうもなかった。両手がふさがっていて、このままじゃ何も掴めやしないじゃないかと思ったけれども、それでも雨は冷たく俺を湿らせた。

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イノウエ

  • Author:イノウエ
  • −失われました
    −ゲームとかアニメとか妄想