うそつきの猫

2018/04/02

毎年、ぼくは四月になるとアオタンのことを思い出す。
正確には四月のはじまりの日――エイプリルフールになると、アオタンが「うそだよ」などと言いながらひょっこり帰ってくるんじゃないかと思ってしまう。
アオタンが死んでもう何年も経つけれど、きっとこれからもずっとそうなのだろう。


アオタンというのは、ぼくの家で飼っていた猫の名前で、右目のまわりの大きなぶち模様が、まるで喧嘩で殴られてできた痣のように見えることから父さんがそう名付けた。ぼくと姉さんは単にアオと呼ぶことが多かった。
ぼくとアオタンは同じ年に生まれ、ほとんど兄弟のようにして育つ。アオタンはおよそ愛想というものがなく、人に懐くということをしない猫だったけれど、ぼくが泣いているときだけはしぶしぶという感じでそばに寄り添い、ふさふさの毛につつまれたお尻をぴったりとくっつけてくれた。


あの頃、ぼくはよく泣いていた。
主に、口が悪くて乱暴な姉さんによく泣かされていた。二つ歳上の彼女に、ぼくはほぼ毎日泣かされていたと思う。おやつを取られたり、お気に入りのおもちゃを壊されたり、ゲームのセーブデータを上書きされたり……そんな数々の暴虐にさらされて、涙ぐみながら鼻をすすると「うぜっ……泣いてんじゃねーよ」などと言われながら頭を小突かれ、またぼくは泣いた。
部屋のすみに小さく座り込み、涙でひりひりする目尻をこすっていると、膝の横が少しだけ温かい。見れば、いつもの仏頂面をしたアオタンがぼくのすぐ横に座り込み、ほんのちょっとだけお尻をくっつけているのだった。ぼくが手を伸ばし、そっとその背中をなでると、なにが気に入らないのか、アオタンは必ずにゃーと甲高く鳴いて、いずこかへと去っていく。


姉さんが中学生の制服をまとい、ぼくが泣かされる頻度がこころもち少なくなったころ、少しずつアオタンの眠る時間が多くなっていく。それに比例して、父さんがアオタンを病院に連れていく回数が増えていった。
ぼくが小学校を卒業して、中学に入る前の春休み。三月の最後の日のことだった。
いつものようにアオタンを病院から連れて帰った父さんは、ぼくと姉さんに、とても真剣な声音で告げた。
アオタンが何年も病気を患っていること。
それは腎臓の病気で、今まで生きてこれたのが奇跡的なのだということ。
けれども、それがもう、限界なのだということ。
だから、せめて今夜はずっとそばにいてやりなさい、と父さんは言う。

ぼくは、そんなのは嘘だと思った。
いつものようにアオタンはすやすやと眠っている。さわると、ふわっとした丸い背中がゆっくりと上下していた。
こんなに柔らかで、温かいのだ。息をしているのだ。
ぼくはこのときまでフィクションの中にしか死は存在しないのだと思っていた。あらゆる物語……漫画やアニメの中ではごくありふれたものとして語られるそれは、ぼくからもっとも縁遠いできごとに違いないと、心のどこかで信じていた。
だから、うそだよね?……と、ぼくは言ってみた。
けれど、首をゆっくりと振る父さんの目はとても悲しげで、姉さんはうつむいて黙りこくったままだった。


その夜、ぼくと姉さんは、猫用ベッドの上に寝そべるアオタンを見つめながらすごした。
もう餌を食べることもせず、好物の煮干しふりかけにすら見向きもしない。一度だけ、弱々しい足取りで猫トイレに行き、またよろよろと戻ってきた。そのまま寝床で静かに目を閉じ、こんこんと眠るその姿を見ていると、ぼくの目から自然に涙が流れ出した。
なんだろう、これは。
姉さんに意地悪をされたときに泣かされて出てくる涙とは、なにかが根本的に違っていた。胸のあたりがやたら苦しくて、痛くて、少し寒い。
心がつぶれる、と感じた。
ぼくは自分の身体を両腕で抱くようにしながら、うずくまった。
こんなの、とても耐えられない、耐えられるわけがない、と思った。


ふと、ぼくの足にやわらかくて暖かいものが触れる。アオタンがいつの間にか寝床からやってきて、ぼくにお尻をくっつけているのだった。
アオタンはいつものように退屈そうで、いかにも面倒くさい言わんばかりの不機嫌顔をこちらに向ける。
そして、なんと言葉を発したのだ。
「やれやれ、いつまでも泣きべそかいてるんじゃねえぜ」
その思いのほかしぶくて低い声に、ぼくはぎょっとする。
いま、なんか、まるでアオタンがしゃべったような……。いやいや、たぶん姉さんのいたずらだろう、と思って横に座っている彼女を見る。
でも姉さんは驚愕に目を見開き、いましがた人の言葉を発したアオタンを呆然と見つめていた。「うそ……」と彼女の口から言葉が漏れる。
「ああ、うそさ。なにせエイプリルフールだからな」
アオタンはひげをひくつかせ、不機嫌そうに言った。
いきなり流暢な人語をあやつりはじめたアオタンに、ぼくは驚きよりも嬉しさをおぼえる。
言葉をしゃべることができるぐらいなのだ。そんなアオタンが、死んでしまうはずがない……。
ねえ、アオはさ、いなくならないよね。
ぼくはそう、問うてみる。
死、という言葉はおそろしくて口にすることができなかった。
「そうさなあ……」
アオタンはどこか少し困ったような口ぶりで答えた。
「ああ、いなくなったりなんかしねえよ。ずっと……」
そう言いながら、アオタンはゆっくりとぼくの膝の上によじのぼってきた。アオタンが人の膝に乗るなどということは、前代未聞のことだった。
ぼくはあわてて、膝から落ちないようにアオタンの横腹を抱える。そのぬくもりは、冷たくなっていたぼくの身と心にじんわりとしみてくるようだった。
「どうでもいいけどおまえらよぉ……もう少し仲良くしろよな……いつもいつも、やかましくてろくに休めやしなかったんだぜ……」
静かにアオタンが目を閉じる。
そして深く、伸びをするようにして大きく鼻から「すぴー」と音をたてて息をする。
「まったくよお……こんなしんどいのは……もう二度と、ごめんだ……」
ふうー、っと長い呼吸を終え、そしてアオタンはその身の動きをぴたりと止めた。
何年もさわり心地が変わらなかったふさふさの背中は、もう上下していない。
「うそ、アオ……ねえ、うそでしょ……ねえ」
ぼくは姉さんが泣いているのを生まれて初めて目にした。ぼくたちは抱き合うようにしながら、永い眠りについたアオタンの前でずっと泣きつづけた。父さんがやってきてぼくたちを優しく抱きしめ、朝がきて、いつの間にか眠ってしまうまで。


あの不思議な夜のできごとは、泣きつかれて眠ったときにみた夢だったのかもしれない。
それをはっきりとたしかめてしまうのがこわくて、それ以来アオタンのことを姉さんと話すことはなかった。もしかすると、姉さんも同じ気持ちだったのかもしれない。

でもぼくの腕の中で冷たくなったアオタンが生き返るようなことはなくて、だから今は……当たり前だけれど、アオタンはもういない。
それでもぼくは、エイプリルフールの日が来るたびに、せいいっぱい下手なうそをついてみせた猫のことを鮮烈に思い出すのだ。何年も経った今でも、ずっと。
そしてきっと、これからも。

何年か前に大学の同級生と結婚した姉さんが、最近、猫を飼いはじめたらしい。
今度姉さんの家に遊びに行ったときに、ぼくはアオタンのことを話してみようと思う。
あのうそつきの猫のことについて、いつまでも笑って語り合えるように。

俺のフレンズが異世界でとってもアニマルすぎる

2017/04/16

※この物語はフィクションです。
 実在する人物や動物とはあまり関係ありません。

※流行に乗るため「フレンズ」などという語句をタイトルに入れましたが、
 けものフレンズの二次創作ではありません。すいません。


 どこが上か下かもわからない、あやふやな空間に俺は漂っていた。
 たぶんこれは夢なのだ。
 昨晩、俺はいつものように仕事で疲れ果て、家に帰るなりレコーダーに溜まる一方のアニメを二話ほど消化したあと、泥のように眠りについた。
 そこまで思い出すと、急速に世界が白く色づきはじめた。夢から醒める前兆かもしれない。
 ふと、白い視界の中に一人の男が浮かんでいることに気がついた。知っている顔だった。
「お前は……」
 俺は思わずつぶやいた。
「俺の十数年来の友人であり、最近はボリビアに旅立つと言って消息が途絶えていたヒライじゃないか」
 誰かに説明するかのような不自然な台詞が口をついて出た。
 ヒライも俺を認めると、手を振って応えた。涼しげなアロハシャツの袖が揺れた。
「イノッチじゃん。ぼくの十数年来の友人であり、そろそろ過労かメタボでぽっくり死ぬんじゃねえかと密かに危惧されているイノッチじゃん」
「ビキニ・ウォリアーズを全話観るまでは死なないさ。それよりどうだった、ボリビアは」
「いや、実はボリビアまで行くのが急に億劫になって、西日暮里で引き返してきた。ぼくの旅の終わりはもうここでいいかなって。セカイの中心、西日暮里で」
 遠隔地にいたかと思いきや、わりと近所にいたらしい。あいかわらずヒライは俺をがっかりさせるのが上手い。
「ところで、なんなんだいここは。よく見たらぼくたちしれっと宙に浮いてるし……。夢なのかな。それにしてはイノッチの不健康さが妙に生々しいけれども」
 あまり不健康不健康言わないでほしい。むしろ嘘でもいいから健康とかヘルシーとか不老長寿とか言ってほしい。植物だって毎日言葉をかけてやれば成長が促進されるらしいし、だったら俺にだってなんらかの効果があるかもしれない。
 そんなことを考えていると、聞きなれない女の声が響きわたった。鋭い笛の音のように甲高かった。
「これは夢なんかじゃないわ」
 俺たちおっさん二人から少し離れた場所に、やはりその人物は浮いていた。「浮いていた」と言っても職場の飲み会とかで誰とも会話できなくて、他のグループの狭間の空間でひたすらカシスオレンジをちびちびやるという感じの「浮いていた」ではなく、ふわふわと宙に浮かんでいるという意味だ。
 それは少女だった。
 ややきつめの表情とは対照的に、なにやらふわっとした素材の服を身にまとっている。ふわっとしたスカート、ふわっとした襟元、そして背中からはふわっとした四対の羽根が伸びていた。
よくよく見てみると遠近感がおかしい。てっきりこのおかしな空間のせいで距離感が狂っているのかと思ったがそうではなく、どう見ても彼女のサイズは通常よりも小さい。だいたいfigmaぐらいの大きさだった。
「えっ……これってチャム=ファウ的なもの?」
 ヒライが妖精のような少女を指さして言った。
「なんだと……じゃあ、すなわちここはバイストン・ウェルってわけか」
バイストン・ウェルを知る者は幸せである……大塚芳忠のナレーションが脳裏をよぎった。なんてこった。知らぬ間に俺たちは幸せになっていたのか。
「残念ながらここはバイストン・ウェルではないし、私はミ・フェラリオでもないわ」
 妖精少女がそんなことを言った。一見少女の姿をしているが、さらっとダンバイン用語を使っているあたり、もしかすると俺たちと同世代なのかもしれない。
「そしてもちろん、夢でもない。これはまぎれもなく現実よ。ただし、あなたたちの現実とは異なる世界の」
 彼女が横薙ぎにさっと腕を振ると、眼下に円形の島のようなものがいくつも浮かび上がってきた。島同士は橋のような細い道で連結されている。俺たちの真下にあるひときわ大きな島には、巨大な文字が描かれていた。ひらがなで四文字。
 ふりだし
と書いてある。
「ここはル・マニア・ワールド。これからあなたたちには私の作った遊戯場で遊んでもらいます」
妖精もどきの少女はにっこり笑って付け加えた。
「死ぬまで……いえ、死んでからもずっと、ね」


「するとなにか」
 少女の言葉にさほど驚いたふうもなく、ヒライは言った。
「ようするにここは異世界ってわけかい。そして元の世界に帰るには、あの巨大なすごろくをクリアしろと。そういうことかな」
「そ……そうよ。やけに話が早いわね」
 不審げな妖精に向かって俺は言ってやった。
「いやいや、だってこれ超ありがちな話だから……いい歳して俺たちがどれだけ異世界もののラノベやゲームを乗り越えてると思ってるんだよ。ル・マニア・ワールドってのも微妙にスダ・ドアカ・ワールドを彷彿とさせるし、もう少し世界観を捻ってくれよ頼むから」
 むぐ、と悔しげに顔を歪ませるミニ少女。
 いい歳こいたおっさん目線でさらに言ってやろうとしたところに、横から制止の声が入った。
「いやいやイノッチ、落ち着きなよ。だって仕方ないじゃない。誰だって最初は強引にオリジナリティを出そうとして無意識に好きなもんから雑にパクってきちゃうものさ。そう、誰だって最初からはびっクリエイターにはなれないさ。煮えたぎる才能にコツを加えないとな。そういうもんだろ、びっクリエイターって」
 さりげなく「びっクリエイター」という言葉を二度も織り交ぜつつ、いつになくヒライが優しい言葉を吐くので、俺は問うた。
「いったいどうした、平素なら似てないチャオズの物真似を見ただけで即座にキレるお前が……まさか、この妖精ちゃんに恋でもしちまったのかい」
 ちなみに俺は恋してない。だって巨乳じゃないし……。
「ばっかちげえよ、ちげえよばっか、イノッチ・ちげえよ・ばっか・ちげえよ」
なぜかリズミカルに俺の言葉を否定するヒライ。そこはかとなく不快感をおぼえたので、一発殴っておくことにする。だが……。
「あれっ、なんだこれ。すり抜けちまうぞ?」
 俺の鉄拳はヒライの身体に触れることができない。これではワンパン入れるどころではない。ゼロパン……いや、むしろカニパンという線もあり得る。
 混乱する俺たちを楽しそうに眺め、勝ち誇ったように妖精は言う。
「無駄よ。そっちのデブはここに召喚したときにアストラル体にしちゃったから」
 デブというのはまあ論理的に考えると俺のことであろう。女の子にデブと言われるのは何歳になってもそれなりに傷つくことを付記しておきたい。だが俺は傷心をおくびにも出さず、彼女に詰め寄った。
「おいチャム、なにしちゃってくれてるんだよ!」
 なんだよアストラル体て。ゲームや漫画でときおり見かける用語だが、幽霊みたいなもんだろうか。
「チャムちゃうわ! 私のことはそう……ゲームマスターと呼びなさい」
 羽根を震わせてそんなことを言う。
「じゃあマス子、なぜこんなことをするんだ。どうせ教えてはくれないだろうがいちおう訊いておく」
「ふん、もちろん教えてやらないけど……ヒライ」
妖精チャムあらためマス子が、そこで苛烈な視線をヒライに向けた。明らかな敵意が込められている。
「このゲームはあんたに遊ばせるために作ったの。あんたに思い知らせてやるためにね」
「え、ぼくに?」
 なにやらマス子とヒライには因縁があるらしい。もっとも、ヒライには身におぼえがないようで、困惑しているようだが……。
「あの、マス子、じゃあ俺はいったいどうしてここに……」
「あんたは、まあ……ついでというか、単なるとばっちりね。古い友人も巻き添えにすればヒライが苦しむかなって。あとマス子言うな」
 ちくしょう……なんだそれ。この先ずっとこの体だったらどうするんだ。コントローラも握れないからゲームで遊んだりもできないってことか。超困る。
「残念だったね。あいにくぼくはまったく苦しんでいないよ。むしろちょっと楽しくてテンションが上がっちゃってるぐらいだよ」
 場にそぐわぬほどに不敵な笑いを浮かべながら勝ち誇るヒライ。お前はもう少し苦しんでほしい。なんなら死んでくれてもいい。
「ふふん。いつまでそんな悠長なことを言っていられるかしら……さあ、ダイスを転がしなさい。あなたたちにとっての運命のダイスをね」
 マス子がちょっと格好いいことを言うのと同時に、俺たちは「ふりだし」の島の上に降り立っていた。眼前には一辺が一メートルもあろうかという巨大なダイス……すなわちサイコロが一つ、置かれている。
「バラエティ番組でこういうのあったよね。トークのお題を決めるやつ」
「あー、あったあった。なにが出るかな、なにが出るかな……ってやつだな」
「早く振りなさいよ!」


 そうしておもむろに遊戯は始められた。とんだすごろクエストであった。
 俺はアストラル体とやらにされたせいで物体に触れられないため、ヒライがダイスを抱え、よっこらせと放り投げた。おっさんなのでこういう場合にはほぼ確実に「よっこらせ」だの「よっこいしょ」が出るのである。
 出目は三。
 それに従い、ぞろぞろと歩いて島を三マス分移動する。スケールが無駄にでかいのでけっこう時間がかかる。
「私が自分で仕組んでおいてなんだけど、あんたたち従順すぎない? 普通こんな理不尽なことが起きたら、もっといろいろ根掘り葉掘り訊いたり、元の世界に帰せ!って掴みかかったりしてくると思うんだけど」
 ふわふわと俺たちの周囲を飛び交いながらマス子がそんなことを尋ねてきた。その軌道が心なしか彼女の不安を表しているように思える。
「愚問だね」
 ヒライが即断する。
「こういう場合に下手に楯突いたり騒いだりすると、たいていそいつは見せしめに殺されると相場が決まっているんだよ」
 俺もうなずきながら、
「俺たちのようなしょうもない三十路は、いざというときのための行動を日々わりと真剣に考えているもんさ。『ゾンビが街を占拠したらどうすべきか』とか『職場にテロリストが乱入してきたらどうすべきか』とかな。もちろん『いきなり異世界に召喚されたらどうすべきか』というケースも考えていたということだ」
 それを聞いたマス子は、なぜかげんなりした様子だった。
「本当にしょうもない三十路ね……なんで三十年以上も生きてるのかしら……」
 そうこうしているうちに三マス先のマスにたどり着いた。地面には大きな文字で、指示とおぼしき言葉が書かれていた。

 メスチソに会え

「会えるか!」
 つい俺は叫んだ。俺とヒライと妖精のマス子しか存在しないっぽい異世界で「白人とインディオの混血の人に会え」とか、そんな理不尽な指示ありえねえだろ。
 だが、いちおう一縷の望みをかけて訊いてみた。
「ヒライよ。お前、実は白人とインディオの混血だったりしないか?」
 案の定、彼は首を横に振った。
「いや、残念ながらぼくは生粋のモンゴロイドだね。モンゴロイダーと称しても過言ではないね」
「なるほど。俺もそうだ」
 モンゴロイダーという言葉の意味はわからなかったが、意味を聞くのは敗北のような気がするのでスルーする。つづけて俺は斜め上あたりに滞空していたマス子にも視線を向ける。
「言っとくけど私も違うわよ」
「そうすか」
 しばし沈黙がその場を支配した。
 この世界は寒くもなく暑くもない。いつの間にか空は青く澄み渡っており、俺たちのよく知る太陽にそっくりな輝きが天を満たしていた。
「で、メスチソに会えなかったらどうなるのかな」
 ヒライが当然の疑問を口にする。
「えーと、罰ゲームとして腕立て伏せ五十回ね」
 えー。罰ゲームて……。
 俺が全身でゲッソリする感覚を表現しているわずかの間に、すでにヒライは地に両手を付けてプッシュアップをはじめていた。この男は順応性が高すぎる。
 近くに漂っていたマス子が俺の肩を小突く。
「イノッチだっけ? ほら、あんたもやるのよ」
「……わかりましたよ」
 俺も這いつくばって腕立て伏せをはじめる。この過酷な運動を行うとき、いやでもデブは己の重さを自覚する。そのあまりの重さに恐れおののく。押しつぶされそうになる。
 ヒライの三倍以上の時間をかけて、俺はようやく腕立て伏せを終えた。
「あんた、どれだけ不健康なのよ……」
 マス子の呆れ声が頭上から降ってきた。
 ぜえぜえと息を切らせ、疲れきった両腕を棒のように垂らした俺に反論の言葉を口にする余力はない。
「そうだぞイノッチ。もっと運動しなよ運動を」
 ほがらかにヒライが言う。五十回程度の腕立て伏せなどまったくこたえていないらしい。
「納得いかねえ……」
 これ、完全に俺一人への罰ゲームじゃねえか。
「じゃあ次行くよ。そらよっと」
 ヒライがダイスを振る。今度の出目は六だ。
 マスの島を渡り歩く道すがら、俺は羽虫のように空を漂うマス子に声をかけた。
「マス子さんや。きちんと聞いてなかったけど、このすごろくをクリアしたら本当に俺たちは元の世界に戻れるんだよな。そして俺もアストラル体とかいう珍妙な状態から元の身体に戻れるんだよな」
「ええ、そうよ。このゲームをクリアできれば、あんたたちは元の世界に帰ることができる。あんたも元の不健康な肉体に戻れる。この私が保証するわ」
こんなよくわからない謎生物の保証がどれだけ信頼に値するのだろう……。正直はなはだ不安ではあったが、とりあえず納得するしかなかった。
「無事にクリアできればね……ふふふ」
 わー、不吉な予感しかしねえ。
 やがて俺たちは指定のマスに着いた。地面にはこう書かれていた。

 アボリジニに会え

 アボリジニとはオーストラリアの先住民のことだ。最近ではアボリジナルとも言うらしい。
 俺は表情を消して淡々とマス子に問いを発した。
「で、実行できない場合の罰ゲームは?」
「腹筋五十回」
 俺とヒライは無言で腰を下ろし、それからしばらく腹筋運動に没頭した。


 それから何回かダイスを振り、止まったマスの指示に従う。たいていは理不尽で実行不能な指示が書かれており、俺たちは罰ゲームを遂行する羽目になった。
「このすごろく、マジでクソゲーなんだけど……このままだと俺、結果にコミットしちまうぞ……」
 繰り返される反復運動で疲弊しきった俺の口からぼやきがこぼれた。筋肉という筋肉に多量の乳酸が溜まっているのがわかる。気を抜くと痙攣しそうになる両足を引きずるようにして、俺はマスを渡り歩いた。
「ついに到着したわね。ここが最後のマスよ」
「えっ、もう終わりなのかい」
 軽快に歩いていたヒライがちょっと名残惜しそうに言う。俺とは違い、まったく疲れていないご様子だ。
「あんたたちにはここでもう一度ダイスを振ってもらうわ。そして選ばれた動物と戦ってもらう。それに勝利できればクリアよ」
 マス子がそんな説明をする。
 動物ってあれか。異世界だけに、まさかドラゴンとか出てきちまうのか。
「そして戦うのはヒライ、あんたよ。デブの方は近くで見守るだけ。助言ぐらいはしてもいいけど」
「あいよ」
 軽いノリでサクッとダイス(各面に動物のシンボルらしきものが彫られている)を振るヒライ。驚きの順応性であった。
 転がったダイスの面には犬とおぼしきシンボル。
 犬。犬か……もしかしてヘルハウンド的な凶悪な犬なのかもしれない。
「これから一分経過ののち、専用のバトルフィールドに転移するわ。そこで対戦動物と勝負。デスマッチよ」
「なるほど。二人が入り、出るのは二人……というわけかい」
 訳知り顔でヒライがサンダードームの掟っぽいことを言った。
「いやいや出るのは一人だろ。それだと単なる仲良しの二人組じゃねえか」
 あと「一人と一匹」という表現の方が正しいと思う。
「あ、あと動物に殺されても生き返ってリトライできるから安心して死んでいいわよ」
「お、そうなんだ。安心安心」
 マス子の言葉を聞いてあっさり安心するヒライ。いやいや、そう簡単に安心するなよ。いくら異世界での出来事とはいえ、普通は心配だろ。どれだけゲーム脳なんだよ。
「さあ、転移するわよ。ヒライ、大自然の怒りを思い知るといいわ」
 マス子がまるでサムスピのナコルルのようなことを言った瞬間、景色が切り替わった。一面、見渡すかぎりの草原だ。
 かたわらのヒライの前方、数メートル付近のあたりに一匹の犬がいた。
 黒っぽい毛並みの、それなりに獰猛そうな犬である。ヘルハウンド的なやつではなく、軍用犬のように超強そうなタイプでもなく、言ってしまえばごく普通の犬であった。
 俺はヒライに声をかけた。
「おい、そんなに強そうな犬でもないが、お前大丈夫か。犬ってまともに戦ったらかなり強いって聞くぞ」
「大丈夫だ。問題ない」
 問題しか感じられぬ不穏な回答である。恐る恐る、俺は勝算の有無を訊いてみた。ヒライはアロハシャツを脱ぎ、自らの腕にぐるぐると巻きつけながら言った。
「ああ。まず犬に腕をわざと噛ませる。そして川に引きずり込み、溺死させればいいのさ」
「おい! それまんまマスターキートン(漫画)の知識じゃねえか! それに川なんてどこにあるんだよ」
「あ」
 ヒライが間抜けな声を出すと同時に、対峙していた犬が飛びかかってきた。とっさにシャツを巻いた腕を差し出すヒライ。次の瞬間、「あいたた……い、痛い、痛い!」
 犬に腕を噛まれたヒライが悲鳴をあげる。まあ、そりゃ薄いアロハシャツ一枚だしな……。
 空いている方の腕を使い、ヒライが犬の頭を殴りつけると「ギャンッ」と悲鳴を発しつつようやく腕から牙を引き抜いた。
「いてえ……いてえよお」
 呻きながら腕をおさえるヒライ。シャツはぼろぼろに裂け、鮮血にまみれている。かなり壮絶な光景であった。
「おいヒライ、来るぞ! ガードを上げろガードを」
 丹下段平のような叱咤を飛ばす間に、怖ろしいまでの敏捷性でヒライの懐に飛び込んでくる犬。慌てて身をよじるヒライの首元に犬の口腔が迫る。
「うわ……」
 防ぐ間もなく喉を噛み裂かれ、地面に引き倒されるヒライ。力を失ったヒライの頸部から、断続的に真っ赤な噴水のように血飛沫が周囲に撒き散らされた。それは凄惨な幕切れの合図であった。
 そうして俺の十数年来の友人、ヒライは命を落とした。


「あー、マジで死ぬかと思ったわー」
「いや、マジで死んでたからな……」
 俺たちは「ふりだし」のマスに戻されていた。
 ヒライが犬に殺されたとたん、格闘ゲームよろしく中空に「ヒライLOSE」という文字が出現し、まわりの景色が暗転した。そして気がついたら最初の場所に戻されていたというわけだ。
死んだはずのヒライはピンピンしていた。腕や喉の負傷は跡形もなくなり、ずたずたになっていたはずのアロハシャツも元通りになっていた。
「まったく、ざまーないわね」
 楽しそうに俺たちを見下ろすマス子。声が弾んでいた。
「さっきの犬はル・マニア・ワールドでも最弱の小物……あんな犬ころごときにやられるようじゃ、このゲームをクリアするなんて夢のまた夢ね」
 薄っぺらい胸を反らしながら、なおも言い募る。ヒライがひどい目にあったのがよっぽど嬉しかったらしい。
「いやいや、でもぼくは全然負けた気がしてないからね」
 あれほどまで見事に惨殺された者の言葉とは思えない。こいつの場合、負け惜しみではなく、ほとんど本気で言っているのがすごい。
「腕に巻きつけたのがシャツだけじゃなく、ズポンやパンツも全部巻いてれば違った結果になったと思うんだよね」
「いや……そんなに違った結果にはならなかったと思うが……」
 いつまでも敗北を引きずらない姿勢は立派だが、こいつ脳内の敗北感知器官みたいなもんが壊れてるんじゃなかろうかと少し心配になる。
「で、また最初からやり直しってわけか……」
 俺はうんざりしつつ、いちおうマス子に確認してみる。
「あのー、動物バトルまでのスキップ機能みたいなのはないんすか」
「ないわね」
「そうすか……」
 ため息をつく俺を尻目に、ヒライがダイスを振る。
 そうして再び俺たちのすごろクエスト(二周目)がはじまった。


 たしか漫画「ToLoveる」にも似たような話があった。
 ひょんなことから強制的に等身大リアルすごろく的なものをやらされ、それはもうウハウハなエロハプニングが次から次へと起こるのだ。
 いいよな……せっかく異世界に行くなら、俺もああいうラッキースケベが横行するエロコメディの世界に迷い込んでみたかった……。
 進んだ先のマスで腕立て伏せ五十回やら背筋七十回やらスクワット百回やらをこなす最中、そんなことを考えて必死に現実逃避にいそしむ俺。
 全身の筋肉をくまなく酷使できたころ、ようやく「あがり」のマスへと再びたどり着いた。
「ヒライ、マジで頼むぞ……いや本当にマジで勝て。死んでも勝ってくれ」
「わかっているよ。ぼくも霊長類のはしくれ……こんなわくわく動物ランドに屈しはしないさ」
 あいかわらず言葉尻だけは威勢はいいが、こいつの戦闘能力は普通に三十路のおっさん程度でしかない。わずかなアドバンテージと言えば、そこそこの体力と、「空手バカ一代」や「バキ」とかのバトル漫画を人よりも多く読んでいるぐらい。かなり絶望的だ。
「さて次の動物は……っと。なんだこれ、鹿かな?」
 ヒライが転がしたアニマルダイスの目は、たしかに鹿だった。頭部に立派な角を生やした雄鹿のシンボルだ。
 鹿か……肉食獣ではないだけ、まだ勝ち目があるか……?
「ヒライよ、なにか策はあるか」
「ある」
 友は力強く断言した。
「鹿のあの角……あれをうまく掴んで押さえ込めば、たぶん勝てると見たよ」
「かなりの猿知恵臭がするんだが……まあがんばってくれ」
「今思ったんだけど、イノッチも戦いに参加できないのかい? 相手に触れられなくても、囮になって注意をひくとか」
 あ、なるほど。思わず俺が手を打つそばで、ゲームマスターことマス田マス子(仮名)さんが冷酷に言い放った。
「無理よ。アストラル体は動物からは一切感知できないから。言ったでしょ、あんたはただ見守るだけの存在。空気よりも希薄な存在だから」
「あ、そうなの……」
 うなだれる俺。ヒライも軽く舌打ちする。
「なんだよイノッチ、意味ないなあ。方向音痴のマッパーぐらい無価値な存在だよね」
「オイそれはちょっと言いすぎだろ!」
 そんなせこい諍いを起こしていると、不意に世界が切り替わった。バトルフィールドへと転移したのだろう。
 今度の舞台は木々が生い茂る森林だった。ヒライの前方に、ひときわ立派な大樹に寄り添うようにして一匹の雄鹿がいた。
 鈍く光る黄金の毛並み。あまりよく知らないが、たしかオジロジカとかいう種類の鹿だろう。ごつい枝のような角の下にある黒い瞳が、悠然とヒライを見下ろしている。やばい。森の王者的な風格が感じられる……!
 対峙するヒライを見ると、特に気圧された様子もなく、冷静に相手を見定めているようだ。
 やがてヒライは両手を前に構えながら、じりじりと鹿の方へと歩み寄っていった。
 これは、今度こそはいけるか……?
 近づいてきたヒライに応じるように、雄鹿の方も頭を下げて戦闘態勢に入る。
「鹿ってこんな好戦的だったっけ……」
 俺がつぶやくと、マス子がふんと小さく鼻を鳴らした。
「そんなわけないでしょ。動物は……自然は怒っているのよ、あの男に」
 あいかわらず彼女の言葉の端々には、ヒライへの憎しみが滲んでいた。
「なあマス子。ヒライがいったいなにをしたっていうんだ?」
「それは……」
「それは?」
「……教えられないわ」
 彼女はぷいっと顔をそむけてしまった。
 だんまりを決め込む彼女を尻目に、ヒライと鹿に動きがあった。
 ヒライは素早く前方に踏み込むと、両の手を鹿の頭上、二本の角へと伸ばす。作戦どおりに角を押さえ込む算段らしい。果たしてそれは、成功した。
「よしっ……!」
 ヒライの手が、鹿の角をしっかりと掴む。これで鹿は動きを封じられるはず……。
「おお、やったかヒライ!」
 だが、古今東西「やったか?」と問うて本当にやっていた試しはない。
 俺が固唾を呑んで見守っていると、鹿はさらに頭を下げた。態勢を崩され、前のめりになるヒライ。
 次の刹那、俺は信じがたいものを見た。
 雄鹿が凄まじい勢いで角を振り上げたのだ。奈良県には煎餅をもらうとぺこりとお辞儀をする鹿がいるが、あの動きを逆回しにして千倍ほどに早めたような動きだった。
 離れていても「ごうっ」という風を巻く音が聞こえるほどの、それは猛烈なパワーとスピードを伴っていた。その動きの作用点である角を掴んでいたヒライは、なんと空高く投げ飛ばされていた。鹿の頭上、三メートルか四メートルほどまで軽々と浮かび、そして重力によって落ちてきた。
「わ、うわあああ―――ぎゃぶっ」
 落下するヒライの悲鳴は、蛙がつぶれるような音で途切れた。鋭く突き出された鹿の角が、ヒライの腹部に突き刺さっていた。おそらくは内臓を突き破っているだろう。鹿の角が、垂れてきた血で真っ赤に染まる。仕留めた獲物を高々と掲げ、心なしかそいつは勝利の笑みを浮かべているように見えた。


「いやー、とんだ殺人鹿だったね。死ぬかと思ったよ」
「実際死んでたけどな。しかしあんな格ゲーの必殺技みたいな死に方、たぶん世界初だろ」
 またも「ふりだし」に戻された俺たち。
 もう投げやりな気分になり、俺は地べたにだらしなく寝っ転がりながらわめいた。
「あー、もう、ていうかこれ、まったく現世に帰れる気がしねえんだけどー。ヒライが勝てる動物なんてこの世にいるのかよ?」
「おいおい失敬だなきみは」
 口をとがらせるヒライ。三十路のおっさんのくせに少しコケティッシュである。
「ぼくにだって勝てる動物ぐらい、いる」
「なんだよ言ってみろよ」
「うーん……虎とか」
「はあ? 虎って、あの虎か? トニー・ザ・タイガーのタイガーのことか?」
 こいつはなにを言い出すのかと思ったら……さすがに空いた口が塞がらなかった。
 虎と言えば地上最強クラスの肉食獣である。水滸伝に出てくる一騎当千の猛将ですら、虎を倒せる者は少ない。あ、でも「龍が如く」の桐生さんは同時に二頭倒してた。大阪の地中から出現した城で。
「いちおう話だけは聞こうか。言ってみろ、お前のモンキーな知恵を」
「ああ。いいかい、虎ってのは自分の腹には攻撃できないんだ」
「……それで?」
「だから、腹にしがみついて三日ぐらい耐えれば、虎、これ、飢えで弱る。ぼく、勝てる」
 なぜか最後の方はカタコトになりながら、ヒライは語った。
 俺は頭を抱えたくなった。
 今さらだが、こんなド低能なファンキーモンキーに俺の命運がかかっているだなんて……。
「ヒライくん……いろいろ無理があるよね、そのメソッドは。いくらお前が友人でも、それはアグリーできない」
 自分でもよくわからない意識の高そうな言葉を織り交ぜつつ、俺はヒライを諭す。
「でも大山倍達先生はそう言ってたらしいよ」
「マジかよ。いや、しかし無理なもんは無理だから」
 俺はため息をついた。
「ちょっとあんたたち、いつまでくっちゃべってるのよ。さっさと次のゲームをはじめなさいよ」
ぷりぷりしながら俺たちの周囲を飛び回るマス子。
「マス子……いや、偉大で美しいゲームマスター殿。一つお願いというか、提案があります」
俺がそう呼びかけると、マス子は一瞬きょとんとした表情を浮かべたのち、
「な、なによ急にあらたまって……まあ、どうせくだらない話でしょうけど言うだけ言ってみなさいよ」
 そう言いつつ、にやけ笑いを隠しきれていない。あれ、この妖精っ娘、意外とチョロいのかもしれない。チョロマスなのかもしれない。
「ちょっとこのゲーム、バランスが悪いと思うんですよね。ぶっちゃけヒライが弱すぎて勝負になってないっていうか」
「まあ、それはそうね。ここまでサクッとやられるとは私も想像してなかったわ」
「ですから、もう少しハンデをつけてやるというのは……勝てる気がしないとゲームって楽しくないじゃないですか」
 チョロマスは「えー?」と思いっきり嫌そうな顔をした。
「私は今のままで充分楽しいけど。ヒライが死ぬのを見るの、最高に笑えるしー」
……そうだった。こいつの目的はヒライを苦しめることだった。ならば……。
「いやいやマス子さん、むしろ一縷の希望を与えておいて、それが粉微塵に打ち砕かれるさまを眺めたほうが、より愉快に楽しめるかと……どうせこの男は多少のハンデを与えたところで勝てやしませんぜ」
「ふーむ、なるほど。それもそうね……」
 ヒライは黙って聞いている。その瞳は「イノッチ、そんな心にもない真っ赤な嘘までついて、ぼくのことを勝たせようと……!」と言っていた。いや、まあ、嘘じゃなくほとんど本音なんだが……。
「よし、わかったわ。次のバトルではヒライにハンデをあげる」
「マジっすか! あざっす!」
 やった! チョロいもんだぜ、と俺は内心でほくそ笑んだ。
「よっしゃ、そうと決まればすぐにやりましょう。すごろく部分はすっ飛ばして」
「いいえ、そこはきっちりとやり直してもらうわよ」
「あ……そっすよね、やっぱり」


 三周目。
 いい加減筋トレのやりすぎで、疲労を通り越して逆に大腿四頭筋とか上腕二頭筋とかがパンプアップしてきたような気がする。このままだと俺、往年のアーノルド・シュワルツェネッガーよろしくギリシャ彫刻と見まごうばかりの美しい肉体になっちまうんじゃねーかという危惧をおぼえはじめたあたりで、また「あがり」のマスに到着した。
 俺は大の字になって息をつきながら、か細い声で上空のマス子を呼ぶ。
「おいマス子ー、ハンデってのは具体的にはどうするんだ?」
「アニマルダイスを振る前にそれは聞いておきたいね」
 相当な量の筋トレをこなしたにも関わらず、たいした疲労も見せずにヒライが言う。戦闘力は皆無のくせに、体力だけは無駄にあるな、こいつは……。
「そうね、戦う動物が決まった後に、なにか欲しい道具を一つ思い浮かべなさい。それを与えてあげるわ」
「え、それってなんでもアリなのかい?」
 ヒライが勢い込んで聞く。
「ええ、なんでも用意してあげる。ゲームマスターに二言はないわ」
やった……! さすがにこれなら勝てるだろう。猟銃とかが出ればたいていの動物は一発だ。あ、でも実際には銃なんか使いこなせるわけがないか。
 じゃあ、斧とかナタとかの近接武器か? でもあっさり回避されて惨殺というオチが目に浮かぶ……。
 ヒライを見ると、想像を絶するほどに薄汚い笑いを浮かべていた。この顔で街を歩いていたら逮捕されても文句は言えないレベルのツラである。
「よし、まあとりあえずダイスを振ろうか」
 そう言って恒例のアニマルダイスを転がした。
 出た動物は……ラッコだった。
 ラッコ!
 あの愛らしい水族館の人気者。お腹の上に石を乗せ、貝を叩きつけて割るという高度な知恵を有することで有名な、あのラッコか。
 間違いなく犬よりは弱いだろう。ハンデのアイテムもあるし。三度目の正直。今度こそ……。
「おいヒライよ。念のため聞いておくが、どういうアイテムを所望したんだ」
「イノッチ、今回こそは完全に、間違いなくぼくの勝利だ。まあ聞いてくれ……」
 そう前置きして、人類最弱の称号を返上すべくヒライは語りだした。
「まず、銃のたぐいはよくない。どうせ使いこなせないからね。かと言って単純な近接用武器もだめだ。なんせ今回の相手はラッコ……バトルフィールドが水中という可能性がある。いくら武器を持っていたとしても、水中で奴らに勝てると思うほどぼくはうぬぼれてはいないからね」
「なるほど。ではお前は、ラッコに勝つためにどんな物を望んだんだ?」
「それはね……『沈没するタンカー』だよ!」
 とんでもない言葉が飛び出した。
「ちょっと待てよ。タンカーってあれか。原油とかを運ぶ巨大な船のあれか」
「そう、原油とか重油満載のあれだよ。タンカーが沈めば海は激しく汚染される……すなわち、そこで泳いでいたラッコもジ・エンドってわけさ」
 そう言ってヒライは片手の親指を下に向ける。ものすごく良い笑顔だった。
「お前は悪魔か……? 勝つために手段を選ばなさすぎだろ」
 マス子が怒るのもなんとなくわかる気がする。たしかにこいつは大自然の敵かもしれない……。
 戦慄していると、前触れなく転移がはじまった。
 次の瞬間には、俺たちはどこかの屋内に飛ばされていた。まわりには見知らぬ計器がたくさんついた机やら無線機やらが置いてある。そしてかすかに感じる、ゆるやかな上下の揺れ。
「あ、これってもしかしてタンカーの中なのか」
 おそらく操舵室だろう。部屋の窓の外には、広く青い海原が広がっていた。
「すげえ、まさか本当にタンカーが出てくるとは……これでもう勝ったも同然だなヒライ」
「ああ。あとは、このタンカーが沈没すれば」
 あれ。
 なんだろう。なにか重大なことを見落としているような気がするが……。
 首を捻っていると、いきなり操舵室全体が上下に激しくシェイクされた。
「うわっ……!」
 ヒライがたまらず転倒する。俺はアストラル体とやらで半分浮遊していたのでなんともないが、ヒライは立ち上がろうにも、揺れが激しくてままならない。おまけに床が徐々に傾きはじめていた。どうやら沈没がはじまったらしい。
「おいおいヒライよ、これヤバくねえか。このままだと船の沈没に巻き込まれて、下手すりゃお前のほうが先にジ・エンドだろ」
 沈没するタンカーに乗ることの危険性をまったく考慮していなかったらしい。ヒライは相対性理論を思いついたアインシュタインのような表情を浮かべた。
「あ、そうか。逃げないとまずいね、これは」
 俺たちは慌てて操舵室を出る。
 すでに床はとんでもない急傾斜になっており、まともに前進すらできない。
 徐々に傾く巨大な船の中で、まるでピンボールの玉のように壁にぶつかり飛び跳ねながら、ヒライはなんとか船の外へと出ることができた。そこは船の横腹についている非常階段らしき場所だった。
ヒライは必死に手すりにしがみついている。船尾は轟々と渦巻く海に半ばまで飲み込まれ、船体すべてが沈むのも時間の問題と思われた。
「おいヒライ、どうすんだよこれから」
 アストラル体の俺は宙に浮かびながら、セミ虫のように階段の手すりにへばり付いているヒライに声をかけた。船体が軋む悲鳴のような轟音と揺れが絶えず階段全体まで伝播してくる。そのたびにヒライは姿勢を変え、階段から転げ落ちないように四苦八苦していた。
「こ……このままギリギリまで粘る……原油が海を汚染して、先にラッコが死ねば、ぼくの勝利……」
 そこまで彼が言ったときだった。突然、ひときわ大きな衝撃が船体を襲った。
 そしてヒライがいた非常階段は次の瞬間、非情階段と化していた。
 鉄製の手すりが大きくたわみ、ねじれ、船体から引き剥がされた。その勢いで、ヒライの身体は船の外側へ大きく投げ出されてしまった。
 ヒライは水面めがけて真っ逆さまに落ちていった。それを見守る俺もまた、同様の速度で落ちていく。
 青い海が近づき、ヒライは水しぶきを上げて着水した。けっこうな高さからおかしな姿勢で落ちたので、体の骨が砕けていてもおかしくはなかった。俺はアストラル体とやらのおかげか、なんの痛みも衝撃も感じなかった。水の中でもまったく苦しくない。
 激痛にもなんとか意識を失わず、深い海の底へと沈んでいくヒライ。このままでは溺死だ。
 遠ざかっていく海面に向けて、動く腕と足をフルに活用してなんとか泳ごうとする。こぽぽ、と口から小さな気泡が漏れ出る。
 そのとき、矢のような勢いでヒライに近づく影があった。
 愛らしくも流麗な泳ぎを見せる魅惑のフォルム。
 今回の対戦動物――ラッコであった。
「おいヒライ気をつけろ! ラッコが来るぞ!」
 俺の声が聞こえたのか、がぼがぼ、と大きな気泡を吐き出すヒライ。必死に手足を動かし、接近するラッコに向き直ろうとする。その動きはあまりにも緩慢であり、逆にラッコは速すぎた。
 みるみるうちに接近したラッコは、ヒライの襟首を器用に前肢に引っ掛けると、なぜか海上めざして泳ぎはじめた。
 いったいなにをするつもりなのだろう。ラッコの意図は読めなかったが、俺はとりあえず追従する。
 ヒライを引っ張りつつも滑るような速さで泳いだラッコは、たちまち水面へと頭を出し、仰向けにその身体を浮かべた。
「がはっ、ごほ、ごほっ……」
 救命浮き輪にしがみつくようにして、ヒライは毛でごわごわしたラッコの身体に掴まっている。水を飲んだせいで激しく咳き込んでいるが、命に別状はなさそうだ。
「このラッコ……もしかしてヒライを助けてくれたのか?」
 俺は不覚にもちょっと感動しそうになる。
 きゅーん、と可愛らしいラッコの鳴き声が聞こえた。見ればラッコは、つぶらな目をしていた。まるで邪気のないビー玉のような瞳だ。そして、その短く可愛らしい両の前肢には……大きな貝が挟まれていた。
「あ……!」
 俺は歯噛みして悔やんだ。どうしてもっと早く気が付かなかったんだろう。
 ヒライがしがみついているのは、ラッコの腹の部分だった。そう、ちょうどヒライの頭部がラッコの腹の上に乗っている……!
「ヒライ逃げろ――っ! それは罠だ――っ!」
 俺は叫んだが、すべてが遅すぎた。ラッコが持つ硬い貝殻は、ものすごい速度でヒライの頭部へと打ち下ろされていた。つづけざまに、何度も何度も。
「がっ……ぐ、がっ」
 断続的に苦悶の声が上がるが、それもじきに止んだ。
 まるでざくろのように赤黒くはじけた三十路男性の頭部を腹に抱えながら、ラッコは静かに海を漂っていた。


「またお前、エポックなやられ方したな」
「さすがにあれはキツかった……普通は死んでるね」
「まあ、死んでたからな実際」
 俺たちはもちろん「ふりだし」に戻っていた。
 その周囲を滅茶苦茶な軌道で飛び回るマス子。
「あっはははは……ラッコに! 頭を! かち割られて! ふへ、ひーひひひ、しかもあんな卑劣な手段を使ったのに……ぷぷ、くくく……最高、ほんとに最高……!」
 しかも、ちょっと引いてしまうぐらい爆笑していた。まあ、俺も自分の身の上が賭けられてなければ超笑っていたと思う。それほどに愉快痛快な死にざまだった。
 狂乱するマス子を尻目に、ヒライはいつものようにダイスを持ち上げた。
「……さあ、次行こうか」
 飲みの二次会へ赴くサラリーマンのような台詞を吐き、淡々とダイスを転がす。
「ヒライ……」
 長い付き合いの俺にはわかった。奴は今、いつになく本気になっていた。その心中に渦巻いているであろう声が手に取るように感じられた。
 次は……次こそは絶対に失敗しない……!
 三回もの死を乗り越えて、ようやく目が醒めたのかもしれない。その小柄な背中からは、かつてない熱気が感じられた。もしかすると、ちょっとした熱気バサラなのかもしれない。
 やがて俺は、黙ってその背中を追った。待ち受ける筋トレ地獄のことをなるべく考えないようにしながら。


 非情にも四度目のアニマルダイスは、最悪の相手を指し示した。
「お次は……ゴリラか」
 ダイスに彫られている姿からして、おそらくはローランドゴリラであろう。まさにザ・ゴリラと呼ぶにふさわしい体躯を誇り、そのたくましい腕が発揮する握力は、なんと五百キログラムにも達するという。人間の胴体など「いろはす」のボトルよりも容易にひねり潰せるだろう。絞られたぼろ雑巾のようになるヒライの姿が容易に想像できた。
「いちおう聞いておくが、ヒライよ……なにか策はあるのか」
 バトルフィールドへの転送を待つ間、俺は恒例となりつつある問いを発する。
「ある。ゴリラは今までの動物の中でもっとも知能が高く、人間に近い……逆にそれを利用する」
「……なんだと? お前、なにを考えてるんだ? あと次のアイテムはなにを使うつもりなんだ?」
「戦いがはじまればわかるさ」
 そう言ったヒライの瞳には、かつてない決意のようなものが浮かんでいた。
 やがて景色が変わる。
 そこはサバンナだった。アフリカを思わせる広大な大地。なぜか時刻は夕暮れで、巨大な太陽が赤く燃えながら地平線の彼方に落ちゆこうとしていた。
 乾いた大地を踏みしめて、そこに勇壮な動物がいた。強烈な存在感をもつその姿は、間違えようもなくゴリラだった。その筋肉はゴリラであり、牙もゴリラ。おそらくは知能もゴリラであろう。燃える瞳も原始のゴリラだった。誰がなんと言おうと、それは圧倒的なまでにゴリラであった。それはサティスファクションであり、燃えるアクションでもあった。
「やっべえ、めっちゃゴリラやであいつ」
 なぜかいんちき臭い関西弁が口をついて出た。
「おい、どうするんやヒライ……ヒライはん?」
 ヒライは敢然とゴリラに相対していた。その手には、見慣れぬ物体を抱えていた。あまりにも想像の埒外だったため、俺はすぐにそれを正しく認識することができなかった。
黒い。真っ黒な物体だ。薄い毛にまみれている。物体というよりは生き物だ。その顔面は無数の皺に覆われ、まるで猿の赤ん坊に見えた。真っ黒な猿の、赤ん坊……。
「お、おいヒライはん。まさかそいつは……!」
「おいゴリラ! こいつが見えるか!」
 ヒライはやおら手に持ったそれを高々と差し上げ、ゴリラに向かって叫ぶ。
「いいかよく聞け! わかると思うが、こいつはお前の子供だ! ちょっとでもぼくを攻撃してみろ。こいつを殺す!」
 まさかの人質……いやゴリ質作戦であった。
 ちょっとどうかと思わなくもないが、それを卑劣とそしることは俺にはできなかった。もはや人としての尊厳をかなぐり捨てた、それはまさに決戦の姿にほかならなかった。
 ゴリラは少し離れた場所からまったく動かず、ただ静かにヒライと我が子を見つめている。
「聞こえてるよなゴリラ! ぼくの言ってることが、わかるよな!」
 なおもわめくヒライとは対照的に、ゴリラはひらすらに不動だった。その瞳は澄んだ湖のような深い知性の光をたたえている。
「おい、この、ゴリラ野郎……やめろ、そんな目で、ぼくを見るな……!」
「お、おいヒライ……?」
 ゴリ質をとって脅しているはずのヒライが、なぜか逆に追い詰められていた。
「ぐう……う……見るな……見ないでくれ……」
 ゴリラはまるで彫像のごとく動かない。形容しがたい不思議な静謐さがその身を包んでいた。もし聖者というものがこの世に存在するのなら、それはこのような姿なのではないかと俺は思った。
神々しい。
 そんな形容すら浮かんでくるほどの、それは力強くも優しいゴリラのたたずまいだった。
「う……うう、うわああーっ」
 やがてがっくりと膝をつき、地に伏して号泣するヒライ。ゴリラの子供はその腕から逃れ、親ゴリラの元へと帰っていく。
「ちくしょう、ちくしょう……ぼくの負けだ。完敗だ……ゴリラに完敗だ……」
 黙ってなりゆきを見守っていたマス子が、いつになく静かな口調で語りはじめた。
「あのゴリラはこのサバンナの王……長老よ。もう四十年以上も生きているわ」
 四十年……つまり俺たちより歳上だということだ。
 人間以外に、自分よりも長く生きて知性を蓄えている動物がいる……そんなことを考えてもみなかったのだろう。ヒライはハッと顔をあげる。
「どう、すごいでしょう。それが自然よ。あんたみたいなちっぽけなおっさんなんか、ひとたまりもないんだから」
 腰に手をあてて、得意気にマス子は宣言した。それは勝利の宣言だった。
 それに呼応するように、脱力したヒライの口から完全な敗北宣言がもたらされた。
「ああ……負けたよ。ぼくはもう正直、どんな動物にだって勝てる気がしない」
 それは驚嘆すべきことだった。どれだけ勝負に負けようと「負けた気がしない」と言い放つことで有名なあのヒライが、まさかこうも正面から負けを認めるとは。
「ふん、そんな殊勝なことを言っても無駄よ。ゲームはつづけてもらうからね。あんたはずっとここで永遠に動物たちに殺されまくればいいのよ!」
 ヒライに敵意を燃やすマス子。どうしても気になって、俺は再び問いかける。
「なあマス子。お前、どうしてそんなにヒライを憎むんだ。こいつになにをされたんだ?」
 だが案の定、マス子は口をつぐんでしまう。
「……言えないわ。この男が自分の罪を思い出すまでは」
 きっ、と鋭くヒライを睨みつける。
「ぼくの、罪……」
 憎悪で焼き殺そうとするかのようなマス子の視線を受け止め、ヒライがつぶやいた。
「うん、そうか……思い出したよ」
 ヒライはゆっくりと立ち上がり、宙に漂うマス子を見つめた。


「きみはイナゴの精なんだ。ぼくが昔、地元で繰り返し殺したイナゴたちの……」
「そうよ。私は……私たちはぜったいあんたを許さない」
 衝撃の事実がもたらされた。
 え、マス子ってイナゴの精だったのかよ。じゃあ、あの羽根はイナゴの……そう思うとちょっとキモく思えてきたが、かろうじて口には出さずにおいた。
 ヒライはまるで懺悔をするかのように、どこか透徹した口調で語りはじめた。
「ぼくの地元の栃木県は、それはそれは娯楽の少ない地でね……子供の遊びといえばイナゴを捕ることぐらいだったんだ」
 ほかの栃木県民が激怒しそうなことをさらっと織り交ぜながら、ヒライは言葉をつづける。
「普通はすぐに飽きちゃうんだけど、ぼくはイナゴ捕りが大好きだった。夢中になって捕まえたよ。そして、それらすべてを殺したんだ。ありとあらゆる手管を使ってね。飽きもせず、何年も、毎日毎日……。もし『イナゴジェノサイダー』みたいな実績があったら、間違いなく解除できてると思う」
 ゲーム脳ならではの発言だった。ちなみに今は「実績」よりも「トロフィー」の方がメジャーになりつつある。
「ヒライ、あんたは殺しすぎた……大自然の怒りを買うほどにね」
「うん……今さら言ってももちろん許してはもらえないだろうけど、謝っておくよ。ごめん、ぼくはちょっとヤンチャしすぎてた」
 ヤンチャの一言で済むようなことでもないと思うが、そこもとりあえず黙っておいた。
「ふん、もちろん許さないわよ」
「わかってる。でもマス子……ぼくは決めたよ」
「おいヒライ、イナゴだからイナ子の方がいいんじゃないか?」
 それまで空気を読んで神妙に黙っていた俺だったが、ついそこだけは思わず口を出してしまった。
「あ、そうだね。じゃあマス子あらためイナ子、聞いてくれるかい」
「どっちだっていいわよ! ていうかどっちも嫌だけど……なによ?」
「ぼくは、このゲームをつづけるよ」
 それを聞いて、マス子……いやイナ子は口を歪めて笑った。
「はっ、当たり前でしょ。でも手加減なんかしないからね。動物たちは全力であんたを殺すから」
「それでいいよ。ぼくは戦わない。この世界で、ずっと動物たちに殺されつづけるよ」
「えっ……?」
 この言葉には虚をつかれたのか、イナ子の表情から険が取れる。
「おいヒライ、お前なに言ってんだよ」
 とんでもないことを言い出したヒライの胸ぐらを掴もうとするが、それは虚しくすり抜けてしまう。俺は言い知れぬいらだちをおぼえた。もし近くに壁があったら殴っていただろう。
「とりあえずぼくが殺したイナゴの数の分だけは殺されてみるよ。もちろんそれで許してもらおうとは思っていないけど」
「おいヒライ、自分でなに言ってるのかわかってるのか……?」
 三度も繰り返されたヒライの凄絶な死に様が脳裏をよぎる。あれを何度も何度も、果てもなく繰り返すだと……?
 それはただ一言、こう呼ばれるものだ。
 地獄と。

 だが、これから地獄に落ちようとする者とは思えない気楽さでヒライは言った。
「それでイナ子、一つだけ頼みがあるんだけど……そこのイノッチだけはさ、元の世界に帰してあげてくれないかな?」
「ヒライ、お前……」
 いきなりそんなちょっと格好良いこと言い出しやがって……反則だろ……。
「嫌よ。あんたなんかの頼みなんか聞いてやるもんですか」
 だがイナ子はにべもない。まあ、そりゃそうですよね!
 わずかに苦笑して、ヒライは話をつづけた。
「いや、でもね。知ってのとおり、ぼくは酷いやつだからさ。イノッチがぼくの巻き添えでこの世界にいることに良心の呵責とかまったくおぼえないんだよね。正直なところ、むしろ長年の友人が一緒でうれしいぐらいなんだ。だからぼくを苦しめようと思ったら、彼がいないほうがいいと思うんだけど……どうかな」
「ふん、誰がそんな話にだまされるもんですか……!」
 だがわりと普通に本当のことを言っている可能性も否定できないのがヒライのすごいところだ。
イナ子が拒絶の言葉を発したそのとき、まるでそれを諌め諭すように、力強くも優しさと頼もしさを感じさせる声が轟いた。
「ウホ、ウホウホ……!」
 声というよりは咆哮……それはあの澄んだ瞳をしたゴリラ……いやゴリラさんから発せられていた。なにやらゴリラ語でイナ子に語りかけているようだ。
「はい……あなたがそう言うのでしたら……わかりました」
 不承不承という感じでうなずくイナ子。俺の方を向いて、彼女は嫌そうにこう言った。
「そこのデブ、あんただけは元の世界に帰してあげる。偉大なる王に感謝することね」
「え……」
 うれしくないと言えば嘘になる。
 だが……釈然としないものが残る。俺はおそるおそる言った。
「あのさ、なんとかヒライも一緒に帰るってことは……」
「できないわ。それは」
 かつて虐殺の憂き目に遭ったイナゴの精は、厳しく首を振る。
「そうだよイノッチ。それはぼくも望んでいない」
 その加害者であるヒライも同じように首を振った。
 かたくなな意思の前に、ただ沈黙するしかなかった。
 それでもなんとか、俺はか細い声を喉から絞り出した。
「俺は……俺は」
 けれど、自分の出す答えはわかっていた。
 俺は臆病者だ。
 この世界に残って長年の友人が無惨に死につづけるのを見守る……そんな選択はどうしたってできなかった。
「ウッホ……」
 気のせいかもしれないが、そんな俺に向かってゴリラさんが優しくうなずいてくれたように見えた。
 心の中で俺が決断したのと同時に、急速に世界が色褪せていく。
 最初にここへ来たときと同じように、だんだんと上下の区別がなくなっていった。俺の周囲から天地が失われていく。
「なあ、ヒライよう」
 最後に俺は呼びかけた。異世界に残る古い友人に向かって。
「待ってるからな」
 その言葉が彼に届いたかどうかはわからない。


 俺は元の世界に帰還した。
 異世界ル・マニア・ワールドであれだけやらされた筋トレの効果は完全に失われており、俺の腹はぶよぶよで醜く出っ張ったままだった。それなのに筋肉痛だけはきっちり残っており、あそこでの出来事が夢ではないことを思い知らせてくれた。
 あいかわらずヒライには連絡が取れない。
 何度か西日暮里のあたりを探してもみたが、その姿を見つけることはできなかった。


 いくばくかの時が過ぎた。
 毎週楽しみにしていたビキニ・ウォリアーズの放映も終わり、また愉快なお色気アニメはないものかと思っていたが、あそこまで突き抜けた作品はそうそうない。
だが、一つ気になるアニメが流行しはじめた。
「けものフレンズ」……もとはゲームなどからはじまった企画のアニメらしいが、詳しくは知らない。なにかいろいろ事情があって少女と化した動物たち――フレンズ――のハートフルなストーリーが人気なのだという。
 フレンズ……友人。
 俺の脳裏にヒライの姿が浮かんだ。彼はいま、どうしているのだろう。
 ある日、夜中にテレビをつけっぱなしにしていると、噂の「けものフレンズ」の放映がはじまった。
 正直、いくら擬人化されているとはいえ、動物はもうこりごりだった。俺が望んでやまない安っぽいお色気もないだろう。
 アニメの主題歌が勢いよく流れはじめたところで、俺はテレビを消すためリモコンを手に取ろうとした。

……今日もどったんばったん お・お・さ・わ・ぎ……!

 昨年奮発して買ったそれなりの大きさのテレビ画面には、ジャングルのような森林が流れるような動きで映し出され、森を抜けた先にある太陽の光に見立てたホワイトアウト……そして広大なサバンナへと背景が切り替わる。
 その瞬間……おそらくはまたたきのような時間の間に、俺はそれを見た。
 見間違いかもしれない。
 仕事で疲労した脳が見た勝手な幻覚だったのかもしれない。
 そこにはたくさんの動物がいた。
 擬人化されていない、あの、ヒライが戦った野生の動物たち。
 犬がいて、鹿がいて、ラッコがいて、もちろんゴリラさんもいた。ほかにもライオンやゾウやキリン、牛や豚や熊など、ありとあらゆる動物がいた。仏頂づらをしたイナゴの精もいたかもしれない。
 そして――あれは……あいつは……

 我に返ったとき、画面には「けものフレンズ」という特徴的な形のタイトルロゴが表示されている。
 俺はしばし呆けたように動くことができず、ただアニメのオープニングが終わるのを見つめていた。
 やがて右手にテレビのリモコンを握っていたことに気づき、俺は少しだけ考えてから、テレビを消すことなくそれを元の場所に戻した。
 そうしながら今しがた見た不思議な光景を頭のなかで反芻する。
 あれから久しく見ていない、友人の姿。
 たくさんの動物たちに囲まれるようにして、腰蓑一丁のヒライがたたずんでいた。
 彼はまるで往年のアーノルド・シュワルツェネッガーのような美しい肉体をしており、三十路とは思えないほどに無垢で楽しそうな笑顔を浮かべていた。

怖がりの先輩の話

2016/11/13

 小学校に通いはじめる少し前。街に点在する桜の木々がその存在感を増しはじめる季節。いつも遊んでいる公園に見知らぬ男の子がいる。彼は錆びた鉄骨で組み上げられたジャングルジムの頂上に登り、高らかに叫んでいる。
「ぼくには怖いものなんか一つもないぞ!」
 本当かな、と思った私は男の子をジャングルジムから引きずり下ろし、その頭をグーで思いきり殴る。すぐに取っ組み合いの喧嘩になる。互いに叩き合い、服を掴んで突き飛ばし合い、髪を掴み合い、頬の肉を伸ばし合う。
 長い長い戦いの末、僅差で私が勝利する。
 馬乗りになった私に組み伏せられながら、彼は言う。
「今日、怖いものが一つできたよ」
 と、怯えた目をしながら私を指差す。その日以来、彼の怖がる顔を見るのが私の趣味になる。


 彼は私より一つ年上である。
「ぼくのことは先輩と呼んでくれ」
 同じ小学校に入ると、彼はそんなことを言う。とくにこだわりもなかったので、私は彼を先輩と呼ぶようになる。
 お昼休みや放課後、先輩に会うと私はきまってこう尋ねる。
 先輩には、今なにか怖いものがある?
 夏休み明け、子供たちの声が飛び交う校庭。五年生になり、顔を日焼けさせた先輩は少しだけ考えて、真剣な表情で答えを口にする。
「やっぱり、きみが一番怖い」
 私は満面の笑みを浮かべて、彼の背中に蹴りを入れる。そして必死の形相で逃げまわる彼に追いすがってすっ転がし、ズボンを脱がしてやる。


 先輩は、今、なにが一番怖いの?
 中学生になって私の背を追い越し、似合わない眼鏡をかけるようになった先輩に私は問う。
「自分が無意味な存在かもしれない、ということがぼくは怖い」
 そんな答えが返ってくる。いつの間にか私よりも怖いものができたらしい。
「この世界、いや宇宙に……ぼくは、いったいなんの意味を持って生まれてきたのだろう。最近はずっとそんなことばかりを考えている。その考える行為そのものを含めたすべてが実は無意味なんじゃないかと考えると、ぼくは夜も眠れないほどに怖くなるよ」
 その日は強い木枯らしが吹いていて、街の向こう側に落ちていく夕日が下校する生徒たちの影を長く伸ばしている。帰り道、肩を落として力ない笑みを浮かべる先輩に私は言ってあげる。
 うん、先輩は無意味で無価値な存在かもね。
「ええっ……?」
 眼鏡の奥の少しうるんだ瞳に向かって、私はなおもつづける。
 勉強も運動もそれなりだし、とりたてて面白いところがあるわけでもないし。いろいろクラスの面倒ごとを押し付けられて毎年なにかの委員長をやったりするあたりが存在価値と言えなくもない……かもしれないけど、宇宙的な視野で見ればほんのチリみたいなもんだと思う。
「そ、そうなのだろうか……ううう」
 頭を抱える先輩を横目に、私はひそかにほくそ笑む。さっき「とりたてて面白いところがない」などと言ったのは嘘だ。なにかを怖がる先輩は、私にとって最高に面白い存在である。


 先輩は高校生になると生徒会に入り、校内運営におけるさまざまの手伝いをやらされるうち、なかば祭り上げられるようなかたちで二年生の冬には生徒会長になってしまう。
 ちなみに私も同じ学校に入学し、なりゆきで副会長の座におさまっていたりする。
「……ぼくが今、一番怖れていることがなにかわかるかい?」
 数日後に迫った校内行事の雑務のため、放課後に二人で黙々と書類作成をやっていると、訊かれてもいないのに先輩はそんなことを言い出す。
 下校時間はとっくに過ぎている。もう他の生徒会メンバーは帰ってしまい、生徒会室には私と先輩の二人しかいない。
 いいからとっとと仕事をしてください、という私の言葉を無視して先輩は語りはじめる。
「ぼくは……女性のおっぱいを見ることもさわることもなく生涯を終えるのではないか……そのことが一番怖ろしい」
 あっけに取られつつも、私は質問する。少し前まで、自分の存在の意味がどうとか言ってませんでしたっけ?
「そんなことは、もうどうでもいいんだよ!」
 眼鏡の奥の目を大きく見開いて、彼は力強く叫ぶ。
「むしろ人生の意味や価値っていうのは、おっぱいをさわれるかどうかで決まる。それが人生のすべて……そう言っても過言ではないんだよ。人生すなわちおっぱいであり、世界これおっぱい。宇宙もまたおっぱいである。しかし宇宙に存在するありとあらゆるおっぱいは、二つに大別される。ぼくがさわることができるおっぱいと、ぼくがさわることができないおっぱい……言うまでもなくその二種類だ。服と下着に隠され、ぼくから観測することができない女性のおっぱいは、その二種類の可能性を常に併せ持つ。つまり二つの状態が量子的に重なり合っているんだ。……ここまではわかるね?」
 いいえわかりません、と私は冷たく即答する。少なくとも私の胸は量子的に重なり合ったりはしていない。
「ふう……やれやれ」
 肩をすくめながら首を振る先輩。むかっとしたので何年かぶりに先輩の顔面をグーで殴る。
「ぐあっ!」
 うめいて鼻をおさえる先輩に向かって、ゆっくりと私は聞く。自然に低い声になる。
 ねえ、もしかして先輩って、私のことを女だって思ってないんじゃないですか?
「えっ……?」
 先輩はおそるおそる、という感じでうなずく。
「う、うん……きみはなんというか、ぼくにとっては妹みたいなもんだよ。少々、凶暴な」
 私はさらにもう一発、先輩を殴る。もちろんグーで。


 そうして、私たちの間にいくつもの四季がめぐる。
 桜の花が舞う季節の、とある日の夜。
 私の目の前のテーブルの上には、指輪のケースが置かれている。
 その箱の中には、先輩が貯金と初任給をつぎ込んで買い求めたであろう指輪が納められている。
 その円環には、ささやかな輝きをまとう小さな宝石があしらわれている。指輪を挟んだ向こうには スーツ姿の先輩が座っており、ひどく神妙な面持ちで私の言葉を待っている。
 ふと気になって、私は訊いてみる。
 先輩が今、一番怖いことってなあに?
「えっ?……な、なぜ今、そんなことを言うんだい?」
 額に汗を浮かべ、真っ青な表情で彼は訊き返す。これまでに見た中でも最高の部類に入る素晴らしい「怖がり顔」をしている。一番好きな表情。私の大好きな顔だ。
「そんなの決まってるじゃないか。きみの返事を聞くのが……今、一番怖いよ」
 願わくば、先輩のその顔をずっと見ていたい。そう思いつつも、私は贈られた指輪を握りしめて、とある言葉を口にする。



「ようやく眠ったね」
 私の腕に抱かれ、静かに寝息をたてる娘をのぞき込みながら、先輩は言う。
「ぼくが抱っこしたら必ず泣き出すのに、きみだと一発で泣きやむんだものなあ……」
 苦笑しながら、そっと赤ん坊のほっぺたをつつく。
 この子はね、と私は彼に教えてあげる。
 この子はね、きっと先輩の困る顔が見たくてわざと泣くんですよ。
「そ、そうなのかい?」
 そうですよ。だって私の娘ですもの。
「うーん、それは困ったなあ」
 さほど困ったような顔をするでもなく、先輩は微笑みながら娘の顔を見つめている。
 そこで、私は問いかける。
 彼に対してこれまで幾度もしてきた、例の問いかけ。
「……今、一番怖いこと、かい?」
 先輩は首をかしげ、しばし考えるそぶりを見せる。やがてゆっくりと両の腕を伸ばし、私と私の抱く我が子をいっしょに包み込むようにしながら、おだやかな声音でささやく。
「この幸せが、いつか終わってしまうかもしれない。それが一番怖いよ」
 さして怖くもなさそうな先輩の弛緩した表情を眺めながら、私は静かに考える。
 もしも今、この小さな娘の細い首を突然へし折ったら、いったい彼はどんな顔をしてくれるのだろう、と。

モーニングスター男子

2016/10/18

ある夜のことだ。
ぼろ雑巾のように働き、泥のように眠っている俺の枕元に武士が座っていた。
その男は武士というか、どちらかと言うと落ち武者という感じだった。ざんばらの頭はちりぢりにほつれ、肩には折れた矢が突き立っていて、いっそう落ち武者感に拍車をかけていた。

仰天して声も出ない俺に対し、その落ち武者は大きく肩を落としつつも正座の姿勢で、フォントにすると淡古印っぽい低くしわがれた声音でおもむろに語りはじめた。
「最近、ちまたでは刀剣男子というものが流行っているではござらんか」
どれだけ話題に脈絡がないんだよ。お前は俺のクラスメイトかなにかかよ。
俺の心中を察するふうもなく落ち武者は言葉をつづけた。
「だから拙者は思うのでござる。そろそろモーニングスター男子の時代が来てもいいと」
「いやいやいや、そんな時代が来てもいいわけはないだろ」
ようやく声が出た。
珍妙な時代の到来を否定する俺の言葉に対し、さも心外といった表情を浮かべる落ち武者。少しイラッとして俺は質問した。詰問になっていたかもしれない。
「……いったいお前は突然なんなんだ。落ち武者っぽい風体のくせにどうしてモーニングスター時代の到来を望むんだ」
「前者の質問については、そう、拙者は守護霊……お主の生命エネルギー……いや生命エナジーが著しく低下したので心配になって枕元に立った次第」
なぜエネルギーをわざわざエナジーと言い直したのか。というか、それ以前にいろいろ言いたいことはあるが……。
おそらく微妙な表情をしているであろう俺にかまわず、落ち武者はとうとうと語った。
「そして後者の質問……拙者とモーニングスターとの関係。それは一言で言い表すことはでき申さぬ。それをあまさず語るには相当の時を要するでござる。それこそ夜明けの星が見える刻限にまで及ぶでござろう……モーニングスターだけに」
心が疲れているとき、この手の「うまいこと言ってやった」系の言葉は本当に頭にくる。
「と、そういうわけでですね、モーニングスター男子の話なんですけれどもね」
身も蓋もなく武士口調をかなぐり捨てながら、落ち武者は強引に話題を戻した。どうしてもモーニングスター男子とやらの話をしたいらしい。
「わかったわかった。で、お前はどういうキャラを考えているんだ。モーニングスター男子とやらの」
「えっ? えーと、あの……なんだろう……いつもトゲトゲしくてドSっぽい男子、とか」
「ありがちというか、それ以外に思いつかんからな。他には?」
「うーんと……こう、さわるとチクチクしてる男子……とか……」
俺はキレた。
「お前、言い出したわりにさっぱり具体性がねえじゃねえか!」
「仕方なかろう! モーニングスターはウィキペディアにもたいした情報がないのでござる! エクスカリバーみたいないわくつきのモーニングスターもなさげだし!」
落ち武者はキレ返してきた。くそっ、こいつかなり面倒くせえ。なにが守護霊だ。なにがウィキペディアだ。たぶん自称守護霊の地縛霊とか怨霊とかそういうよくない感じのあれだ。
「どだい無理なんだよ、モーニングスターが主役になるなんて。正宗とか村正とかそういう固有のキャラクター性が皆無だし」
「むう……オンリーワンになれないのならば……ナンバーワンになるしかないでござるな」
したり顔で落ち武者は言ったが、意味はわからない。
「いや、それも絶対無理だしさ……」
「しかし実際、刀は使うのに高度な技術が必要でござる。すぐに刃こぼれしたり折れたりと信頼性もいまいちでござる。しかしモーニンスターであれば、相手を思い切りぶっ叩くだけでいいのでござる。それでトゲがうまいこと甲冑とかを突き破って致命傷をたやすく与えられるのでござる。マジ刀とか超いらね」
「……ほんとお前、なんで武士の姿で出てきたんだよ」
言語の乱れが甚だしい。
「生前に拙者がもしモーニングスターを手にしていたなら、今もまだ鎌倉幕府がつづいていたでござろうて……」
「どこまでモーニングスターの力を信じてるんだよ。ていうかお前、そんな昔の時代の人間なのかよ。まあ、もうこいつの中ではそういう設定なんだとこっちで勝手に納得するけどさ……」
「……そんなこと言うなよ!」
なぜか落ち武者が苦しげな裏声で言った。まったく意味がわからない。
「別れ際に、”設定”なんて…そんな悲しいこと言うなよ…!」
また裏声だった。
「……」
「……」
かなりの間があってから、俺はそれが碇シンジ(CV:緒方恵美)の物真似なんだとようやく気づいた。
「……そんなこと言うなよ!」
「うるさいよ! それ、おそろしくわかりづらすぎるし、さっぱり似てないし唐突っていうかもう、なんなんだよお前……って、別れ際?」
「そうでござる。名残惜しけれども、訪れたる別離の時……」
まったく名残惜しくはなかった。
「けっきょくお前は、なにがしたかったんだ」
疲れていてつい漏れてしまった俺の問いに、落ち武者は最初に出していた淡古印っぽい渋い声で答えた。碇シンジの下手な物真似を披露したあとで、今さらどう取り繕っても遅いが。
「決まっているでござる。来るべきモーニングスター時代の到来に備え、守護霊としてお主に忠告するために現われたのでござるよ」
「百歩譲ってそういう意図で出てきたとして、最初モーニングスター男子とか、ありえない話をしてた意味がわからんのだが……」
「……そんな悲しいこと言うなよ!」
地味に気に入っているのか、似てない物真似をさらに繰り返して、落ち武者は消えた。
それに呼応するように、いつしか俺の意識も遠くなっていった。

朝が来て目覚まし時計が鳴り、俺はしぶしぶ寝床から起きあがる。
かつてないほど心身が疲弊しているのがわかった。
落ち武者との会話は夢だったのだろう。たぶん、疲れていたからあのようなおかしな夢を見るのだ。

だが夢オチではなかった。
部屋の中には一振りのモーニングスターが残されていたからだ。
長さ1メートルほどの棍棒状の武器。握り部分には滑りどめの革が巻かれていて、先端は球状に膨らんでおり、そこから鋭い金属製のトゲが何本も放射状に突き出している。絵に描いたようなモーニングスターが無造作に部屋の床に置かれていた。
よく見ると自重で床のフローリングに深く突き刺さっており、それが紛うことなき本物の武器であることを物語っていた。
「えー……」
俺は腹の底から脱力した声を漏らし、しばし呆然とした。
そうしてから、おそるおそるそれに手を伸ばし、持ち手とおぼしき部分を握り、ぐっと持ち上げてみた。
「まったく……なんなんだよ、これ……」
モーニングスターは想像していたよりも重くはなかった。
いや、たぶん3キロぐらいはあり、それなりに重いのだが、バランスがいいのかあまり気にならない。
ためしに下から上に振ってみる。先端が重いので、振りはじめに若干ぐらつく感じはあるが、何度か振るうちにコツが分かり、スピーディーに勢いよく振れるようになった。

そこで俺はふと我に返り、悠長にモーニングスターを振り回している場合ではないことに気づいた。今日も会社だ。終電の時間まで働き、場合によっては泊まり込み、まるで明けない夜のように果てしない闇に包まれた仕事がはじまるのだ。
俺は憂鬱さを晴らすように部屋の窓を開けた。
外からいきなり怒号が聞こえた。
男たちが発する野太い怒鳴り声と、短い悲鳴。少し遅れて長い悲鳴……おそらくは断末魔の声。
見れば、外で男たちが戦っていた。
窓から見える歩道の上で、スーツ姿の中年と、パーカーを着た若者が対峙している。傍らには何人かの人が、大量の血を流して倒れている。
中年と若者は、それぞれが示し合わせたようにモーニングスターを手にしていた。
少し離れたところには、主婦とおぼしき女性が犬の散歩をしていた。右手には犬のリード、左手にはモーニングスター。
その横をランドセルをしょった小学生の男女が駆け抜けていく。ランドセルからは、リコーダーではなくモーニングスターが飛び出ていた。
「マジかよ」
俺はつぶやいた。
そんな口にしてもなんにもならないことを、ついつぶやいた。
そのとき部屋の玄関のほうからものすごい打撃音が聞こえた。
何度も何度も、まるで手荒すぎるノックのように。
なにごとかと思って見てみると、そこには我が家のドアを突き破って飛び出している星状の鋭いトゲがあった。
俺はさっきから握ったままだった右手のモーニングスターを、知らぬうちにいっそう強く、力の限り握りしめる。
にぶくもやがかかっていた頭の中が晴れ、覚醒していく。
それは夜明けだった。
あるいは光であり、目覚めだった。
夜に閉ざされた世界の終わりを告げる、ひどくいびつに輝く明けの明星だった。

神よ、黒川を護り給え

2016/06/15

 初めて会ったころの黒川さんは、ひたすら火炎瓶を製造していた。
 当時は火炎瓶をつくる技能に長けた人を重宝がる奇特な人々がなぜか存在して、彼はそんなよくわからないニーズに真っ向から応えることで生計を立てていた。
 黒川さんは火炎瓶をつくるのが早かった。そして彼の火炎瓶はよく燃えた。何か特殊なものを混ぜているのか、青みがかった炎を発しながら、消化剤を散布しない限り一昼夜に渡って燃え続けた。
 俺は火炎瓶を運ぶアルバイトをしていた。仕事は楽ではなかったが、黒川さんが住む街外れの廃工場に行くのは俺にとって数少ない楽しみの一つだった。
「ちわっす。瓶、受け取りにきたんすけど」
「ああ、ご苦労さん。そこに置いてある」
 作業場である地下室へと続く階段を下りたすぐ脇に、ビールケースがどっさり積まれていた。もちろん、中には火炎瓶が満載だ。
「また、えらく大量にこさえましたね」
「ほかにやることもないからな」
「評判らしいですよ。黒川さんの瓶」
 黒川さんは「そうかい」とうなずいて眼鏡の位置を神経質な手つきで直した。
「これから新しい配合の試しをやるんだが、付き合うか」
「え、いいんすか」
「いいさ」
 夕暮れを過ぎた薄闇の中、俺は瓶の入ったケースを廃工場裏の空き地まで運ぶのを手伝った。そこで黒川さんが黙々と火炎瓶を放り投げて、木切れを燃やすのを眺めた。
 乾いた音を立てて割れる瓶。
 導火布から混合液に着火した瞬間に溢れ出る閃光。
 焼きついた視界の中で、あの、不思議な青い炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。
「どうしてあんな色になるんですかね」
 絶えずうつろう炎を見つめながら、俺はたずねた。
「さてね」
 黒川さんは軽くおどけ、肩をすくめた。
「たぶん、理由なんかないんだろうね」
 なぜかはわからないが、軽い口調でそうつぶやいた黒川さんはどこか寂しげに見えた。

 やがて日が落ち、俺がぼちぼち残りの仕事を果たすために廃工場を立ち去ろうとする間際、黒川さんが不意に声をかけてきた。
「君にだけは言っておくよ。もしかしたら、もう、二度と会うことがないかもしれないから」
 突然すぎる別れの言葉だった。「私はソヴィエトに渡る」黒川さんは言った。
「ソヴィエトって……あそこは今、かなりやばいんじゃ」
「そうだね。だからお別れを言っておくよ」



 その次に会ったとき、黒川さんは荒川の土手で石を売っていた。
 長い長い時が過ぎていた。

「……石売るよ、石売るよ」
 
 川べりにくすんだ色のブルーシートを敷き、大小とりどりの石を並べている黒川さんは、ぶつぶつと呻くような口調で道行く人に石を売ろうとしていた。
 俺は自分の目が信じられなかったが、忘れようもない。たしかにそれは黒川さんだった。あまりに変わり果ててはいたが。
「黒川さん」
「……あ」
 俺が声をかけると、黒川さんは呆けたような声を漏らした。
 声をかけてはみたものの、続く言葉がなかった。黒川さんは焦点の合わない視線をぼんやりと俺に向けていた。
「行けたんですか、ソヴィエト」
 やっとのことで俺は言葉を継いだ。長い沈黙があった。
「……たよ」
「え」
「行けたよ」
 黒川さんは静かに言った。俺は、そうですか、と答えた。
「あの国にはすべてがあった」黒川さんは続けた。夢見るような口調で。
「身を切る清洌な空気があり、素朴な人々の温もりがあった。崇高な思想があり、惨憺たる闘争があり、無骨だが美しい武器があり……死があった」
「死」
 と、俺はその一語を繰り返した。
「死は……何の修飾のしようもないぐらいただの……単なる死だったよ」
 それをひどく平坦な声で言ったあと、黒川さんは空を見上げた。俺は黙って耳を傾けた。
「あの国にはすべてがあったんだ。そう、あそこには妖精すらいた……ふふ、逃げられてしまったけどね」
「残念でしたね」
「ああ、残念さ。でもね、もっと残念なことがあった。私は……うん、残念だ……残念だよ」
 それきり黒川さんは黙り込んでしまった。
 どうしたものかと思っていると、突然その少女の声が聞こえた。

「クロカワは、クロカワ自身のБог(ボオフ)をみつけられなかったの」

 気が付けば、黒川さんのすぐ後ろに少女が立っていた。白い肌。亜麻色の布切れのような柔らかい服をまとった、どこかふわふわとした印象の娘。うつむき、虚ろな眼をした黒川さんとは対照的に、彼女は俺をまっすぐに見つめていた。
「きみは」
 何者なのか。
 俺はそう問うたつもりだった。だが俺の声が届いていないのか、少女は長い髪をそよ風になびかせて、たたずんでいるだけだった。
 その超然としたふるまいがあまりにこの場に似つかわしくなく、もしかして白昼夢でも見ているのではないかと俺は思った。
 やがて少女は短く答えた。ささやきにも似た響き。
「ずっと、ずっと、あたしはクロカワのそばにいた」
 少女は、そっと黒川さんの背後から細い両腕をからめ、自ら育てた我が子を慈しむように抱きしめ、頬ずりした。黒川さんは身じろぎ一つせず、茫洋としたまなざしを川面に向けていた。
「でも、クロカワにはあたしがみえないみたい」
 少し困ったような表情を浮かべた。
 気が付けば黒川さんは「石、売るよ」とつぶやき続けている。そんなものを売らないでくれ、と俺は思った。

「石にだってボオフはやどっているの」
 呼ぶべき名前のないその少女は、黒川さんのすぐ横にしゃがみこみ、並べられた石の一つを細い指でそっとつついた。
 黒川さんと、名無しの少女。
 俺はこの光景に少し目眩をおぼえながらも、少女に訊いた。
「なあ、”ボオフ”ってなんだ」
 石をつついて遊んでいた少女は、俺を見上げて小さく微笑んだ。
 その瞳は青かった。
 いつか見た、夕闇に映える青色。俺は目を離せなくなる。
 可憐な花びらをつらねたような唇がゆっくりと動いた。
「かみさま」
 俺は息を呑んだ。

「クロカワに、かみさまは、いなかったの」




 それから俺は、今度こそ二度と黒川さんに会うことはなかった。



 さらに長い、時が流れた。

 それなりに俺は生き、相応に年老いた。
 重篤と呼べなくもない病を得ており、残された時間はそう長くはないと理解している。
 最近は視力の低下がひどく、体調によっては、不意に視界一面が真っ白になることもある。どこまでも広がる白い闇だ。

 そんな折、黒川さんから一通の絵葉書が届いた。
 どうやって俺の住む場所を知ったのか。そもそも彼がまだ生きていたこと自体が驚きだった。
 絵葉書には黒川さんが写っていた。
 満面笑顔の黒川さん。その横にあの蒼い瞳を持つ名無しの娘が可愛らしい笑みを浮かべて寄り添っている。さらに、似たような雰囲気を持つ美しい少女たちが何人も黒川さんを取り巻いている。

 俺はその葉書の写真が作り物ではないかと思った。まるで現実味がない。この世の光景だとは信じ難い――そう思い、俺は目を凝らして葉書を見ようとしたが、ぼやけ白濁した俺の視界はもう、何かの真贋を判ずることなどできはしなかった。
 だがそれでも、黒川さんの笑顔だけは本物だった。
 白いもやの中にかろうじて読める、絵葉書の隅に小さく書かれた「私は見つけた」という殴り書き。
 ああそうか、と俺は思った。
 黒川さんは見つけられたのか、と。

 それきり俺の世界はまばゆく拡散していき、やがて光と闇の区別を失った。

ドット・イン・ザ・ライフ

2016/02/27

■ロードランナー
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わけあって俺はゲーム「ロードランナー」をやっている。
やっている、といってもコントローラを手にしてゲームをプレイしているわけではない。実際に俺自身がランナー君となり、テレビ画面の中に散らばる金塊をひたすら集め、手にしたレーザーガンで地面に穴を掘って警備ロボットを埋めたりしている。
「どうしてこのレーザーガンで直接敵を撃たないんだ?」
そんな疑問は、俺自身が実際にロードランナーになってみても解消されることはない。もちろん直接敵を撃つこともできない。
なぜならそれがゲームのルールだからだ。
俺は地中深く埋まった金塊目指して足元に穴を掘り、飛び降り、また穴を掘る。
だが目算が狂っていたのか、俺は自らの掘った穴の中で身動きが取れなくなる。そしてゆっくりと穴はふさがっていき、俺は息絶える。

世界がポーズされ、俺の視界に古い壊れかけのテレビがときおり発するようなちらつきが広がり、スプライトが現れる。
凍りついた時の中に浮かんだ少女――スプライトは、穴に埋まった俺をつまらなそうに見下ろしている。
「あーあ、また墓穴を掘ったってわけね」
「そうみたいだね」
俺は光のない双眸で彼女を見返す。
ひらひらした服をひるがえしながら飛び回るスプライトは相変わらず美しい。しかし、その小さい花びらのような唇からつむぎ出されるのは、たいていは皮肉に満ちた言葉だ。
「これで合計639回のミス……残りステージは27。無駄な努力をまだ続ける?」
「ああ」俺は暗い土の中で息絶えたまま答える。「続けるよ」
スタートボタンが押し込まれる。
静止していた世界が動きはじめ、スプライトの姿が薄れていく。その美しい眉が憂いの相を帯び、彼女は丸いかたちのため息をつく。
「あんたさあ、とっくに気づいてると思うけど」
消え去る間際、冷たくも可憐な声が俺の耳に届く。
「ゲームの中に、ほんとに大切なものなんてないのよ」


■アーバンチャンピオン
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街のスナックバーのまん前で、俺たちは殴り合いをはじめる。
目の前に俺と同じような背格好の男が立っている。両の拳を顔の高さに構え、無造作なフットワークで近づいてくる。
拳の届く距離に入るやいなや男の放つストレートが顔面に飛んでくる。防いだ、と思ったその直後、ガラ空きだったボディに一撃が入る。二撃、三撃と腹を打たれた俺は苦しまぎれに反撃の拳を繰り出そうとして、待ち構えたようなカウンターパンチを顔面に食らう。
俺は後方に吹っ飛び、二回ほど華麗な後転を披露して地面を這う。
理髪店の入り口の前で立ち上がるなり、また男のパンチが矢のように降り注いでくる。上下に打ち分ける見事なコンビネーション。
ほどなく俺はふたたび路面を転がり、ストリートの冷たい路面と熱烈なキスを交わしたあと、ボロ雑巾のような身体を絞り上げるようにして立ち上がる。
林立する高層ビル。コンクリート・ジャングル。ジャングルで殴り合う獣たち。
「てゆうか殴り合いにもなってないじゃない。一方的すぎ」
あの少女、スプライトの呆れ声が聞こえる。
いつの世でもチャンピオンは勝者に贈られる称号であり、敗者は名もなく、ただ地を這うのみだ。
このゲームの場合は、地を這うことすら許されない。体重の乗ったストレートで量販店わきにあるマンホールに叩き込まれた俺は、闇の中をまっすぐ落ちていく。
下へ。下へ。奈落の底へ。

「また穴に落ちてるのね」
スプライトがささやく。声には呆れと侮蔑の色。
「あんたって、殴り合いに向いてないみたいね」
「どうやら、そうらしいね」
俺は同意する。
はるか上には、マンホールの小さな穴。その中に丸く切り取られた夜空が見える。星は見つからない。
「ねえ」
虚空を落ち続けている俺にスプライトが問う。
「まだ続けるわけ?」
「うん」
俺は特に考えることもなく返答する。それはなぜか、考えることもないことのような気もする。
「どうして? そんなにゲームが大切?」
どうしてだろう。その疑問の答えについては、実はよくわからない。知らないのか。あるいは忘れてしまって思い出せないのか。
ただ――。
「なによ」
「どうも俺には、これしかないような気がするんだ」
スプライトは丸く大きな瞳でしばし俺を見つめ「ばっかみたい」そっぽを向いて消える。


■スペランカー
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スタート開始直後ゴンドラから足を踏み外して一秒、俺はすでに死んでいる。
伝説のお宝が眠るという地下洞窟。おそろしく死に易い体質でありながら、果敢にも俺は財宝目指して奥へ奥へと進む。
落とし穴にはまって死に、ロープを飛び移りそこねて死に、地面から噴出すガスを浴びて死に、蝙蝠が落とすフンにかすって死に、幽霊に触れて死ぬ。

あまりにも圧倒的すぎる、それは死の洗礼だ。
俺はこの身の脆弱さを嫌というほど思い知る。

だが、数々の困難を乗り越えてでも宝を手にしようとするその思い……無謀な洞窟探検者たるこの俺の意思は、いったいどこから来るのだろう。
何十度目かの死。ゲームオーバー画面が凍りつき、可憐な妖精――スプライトが、しかめ面をこちらに向けている。
「ねえ、なにが楽しいの?」
少女はいつになくいらだっている。
「死んで、死んで、また死んで。つらいでしょ、苦しいでしょ? どうしてそうまでしてプレイし続けるの?」
「ただ死んでいるだけじゃないよ。少しずつ、先へ進んでいってる。もうすぐ財宝を手に入れられる」
なにが気に食わなかったのか、スプライトが柳眉を逆立てる。
「財宝がなによ! そんなの手に入れたって、また同じようなステージが始まるだけなのよ? ちょっとは現実を見なさいよ!」
叫びにも似た罵倒の声が洞窟に響く。
いつの間にかスペランカーのテーマが流れている。
遠いどこかの地に立つ鐘楼から響いてくるような、低い音のつらなり。
まるでなくしてしまったものを弔うような慟哭と哀惜のメロディが、俺と彼女との間に満ちる。

「現実」
俺はためしにつぶやいてみる。その言葉はなにか形や意味を成すことなく、ただ俺の前に浮かび、消える。
その言葉はひどく遠くて、まるで異国の言葉のように思える。
「……ごめん。現実なんて関係ないよね。あんたはゲームをやってるんだもん」
俺と現実には、関係がない。
そうなのだろうか。そうかもしれない。
「でもあんたってさ……いくらゲームだからって、ずっと死んでばっかりじゃない」
スプライトは唇をとがらせ、まなざしを伏せる。
「もしかして君は、俺の心配をしてくれてるのかい」
「え」
その頬が少しだけ朱くなり「はん……ば、ばっかじゃないの」口早にいう。
「あんたなんかね、ずっとずっと、好きなだけ死んでればいいのよ!」
そんな言葉を残して、妖精は姿を消す。


■ハイドライド・スペシャル
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魔王バラリスを倒すため、俺は勇者ジムとなってフェアリーランドを駆け巡っている。
妖精と人間が平和に共存する国、フェアリーランド。
情報をくれる村人などは一切存在せず、ただ異形の怪物どもが跋扈する地と化したフェアリーランドを俺は右往左往する。
怪物どもを何百匹と倒して、ひたすら経験値を得る日々を送っている。
十字架。指輪。ランプ。ときおり意味ありげなアイテムを入手するが、その使い道は一切わからない。
このゲームに説明は一切ない。ゆえに、その行動すべてが試行であり錯誤だ。

だだっ広い草原がある。その地にはまばらに木々が存在しており、よく見るとそれらは動いている。木の怪物である。
俺は木に体当たりする。
かなりのダメージを喰らいながら木にぶつかり、それを倒す。
そして次の木へ。また次の木へ。まるで木こりのように俺は木々を打ち倒していく。
ヒットポイントが限りなく死の境に近づきつつも何本目かの木を倒したとき、変化が訪れる。
バラリスによって木に姿を変えられていた妖精が、俺の前に出現する。

「あんたって少しおかしいんじゃないの? よく見つけられたもんよね……」
その妖精は見慣れた少女――スプライトの姿で俺に語りかけてくる。
「もう木に体当たりするぐらいしか、ほかに考えつくこともなかったからね」
「呆れた。なんの手がかりもヒントもないのに」
魔王はフェアリーランドの王女に魔法をかけ、三人の妖精にして世界のどこかへ隠してしまったという。
「その妖精の一人が私ってわけ。あんたがあと残り二人を見つければ、元の王女に……人間に戻れるのよ」
「君は、人間に戻りたいのかい」
俺の言葉にびっくりしたのか、妖精は目を丸くする。
「べ、べつにそういうわけじゃなくて、ゲームの進行上そうしないとクリアできないってこと。いっとくけど、残りの妖精を見つけるのはぜったい無理よ」
俺は草原を超え、砂漠を超え、水路を越えて旅を続ける。
残り一人の妖精は、やはり木々の一つに隠されており、もう一人は魔術師に囚われているのだが、それを知るのはまだ遠く先、無限に近い長さの冒険譚の末、ほとんど永劫に近い旅路の果てでのことだ。

「ねえ。あんたって、なにがしたいの?」
今ではないいつか。ここではないどこか。
妖精の問いに俺は答える。考えるまでもなく。
「魔王バラリスを倒してフェアリーランドに平和を取り戻す」
「……それだけ?」
俺は少しだけ考える。
「王女を元の姿に戻す」
「それって、大事なこと?」
「おそらく大事なことだと思う。少なくとも、今の俺にとっては」
「ふ、ふーん……ま、せいぜいがんばんなさいよね。無理だと思うけど」
「がんばるよ。ゲームの進行上、仕方のないことだからね」
スプライトはまたたくように明滅したかと思うと、俺に罵声を浴びせてどこかへ消えてしまう。
「ばーか!」


■忍者ハットリくん
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突然だが俺はハットリくんだ。
ござるござるのハットリくんであり、うれしい味方であり忍者である。
手裏剣で雑魚忍者をやっつけ、ロボ忍者を倒して巻物を入手し、忍術を駆使しつつステージを進む。
俺はハットリくん。
カエルに触れると即死する。
ちくわを20本喰うと一定時間無敵になる。いかなる成分のちくわなのかは、もちろん言及できない。

ステージの最後にはボーナスステージが待っている。
鳥居の中からハットリくんの父親ジンゾウが出現し、おもむろにちくわを大量に放出する。ちくわの大フィーバーだ。
俺は夢中でちくわを拾い集める。狂ったようにちくわに飛びつく。
だが、ここでやはり罠が待っている。
ちくわの中に紛れて投じられた鉄アレイを脳天に喰らい、俺は一定時間気絶する。

「うわー、痛そう」
全身がしびれて動けずにいる俺の横に、スプライトが浮かんでいる。
「ああ」俺は美しい少女に教えてやる。
「これは実に痛いよ。現実だったら死んでるんじゃないかな」
「あんたねえ……」
スプライトは小さな指を俺につきつける。
「そもそも現実には鉄アレイが頭上から降ってくるなんてありえないから!」
「そうなのかい」
「そうよ」
不意になぜか、彼女はきまりが悪そうに視線をそらす。
少しだけ沈黙があり、俺は思ったことを口にする。
「現実にそういうことがあるのかどうかは知らないけれど、父親が鉄アレイを投げつけてくるゲームというのは珍しいね」
スプライトはぷっ、と笑う。「あははははっ……」そのまま腹を抱えて笑う。
「あはは……ぷっ、そうね。そうよね。いくらゲームでも、そんなのってないわよね……」
なにがそんなにおかしかったのか、彼女は目の端に涙すら浮かべている。
「あー、もう……やっぱりゲームなんてロクなもんじゃないわ」
「そうかもしれないね」
だんだんと身体のしびれが抜けてくる。もうすぐ操作が可能になるだろう。

「あんたなんかにぼやいてもしょうがないのかもしれないけど」
いつの間にか、まるで宝石のような涙の雫が少女の頬をつたっている。
「現実だってロクなもんじゃないわ」
「父親が鉄アレイを投げつけてくるゲームよりもひどいのかい」
泣き顔に笑顔という複雑な表情を残して、幻影のように彼女の姿は消える。
残された俺のまわりには、ちくわと鉄アレイが八月の雨のように降りそそいでいる。


■ポートピア連続殺人事件
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サラ金会社「ローンやまきん」の社長「山川耕造」が殺され、所轄署のボスであるところの俺は現場付近の花隈町にいる。
思わず虫眼鏡で調べたくなるほどに、太陽がまぶしい。
正面に立っている刑事が語りかけてくる。
「僕があなたの部下の間野康彦です。ヤスと呼んでください」
俺の部下のはずだが、なぜか初対面らしい。
「どういうふうに捜査をはじめますか?」
俺は犯人をつきとめるために現場へ向かう。山川の屋敷、その書斎へ。
「場所移動」
「なにか調べろ」
「ここだよ ここ!」
そうして俺はヤスに命令し、部屋の中に隠された鍵やらマッチやら地下迷宮やらを探し出し、密室殺人事件の捜査を進めていく。

第一の有力容疑者「平田」が京都の阿弥陀が峰で首を吊っているのが発見され、捜査は振り出しに戻る。
その後、やっとのことでたどり着いた有力容疑者「川村」も、何者かに殺されてしまう。
捜査は難航を極める。
だが俺はたどりつく。
山川耕造の秘書、沢木文江と、その生き別れの兄。捜査線上に浮かび上がった最後の容疑者へとたどりつく。
文江の兄の肩には、蝶のかたちの痣があるという。

「場所移動」
俺は捜査本部、無人の取調室へと移動する。
無人といっても、誰もいないわけではない。
正しくは、俺とヤスがいる。
俺はヤスに命じる。
「なにか取れ」
「なにを取りますか?」
ヤスは聞き返す。俺は告げる。
「服」
「僕に脱げというのですか? ボスはまさか……」

俺はヤスに――いや、ヤスの格好をした少女――スプライトに向かって、再び告げる。
「なにか取れ」
「……なにを、取るの?」
「服」
無言。
スプライトは似合わないだぶだぶのスーツとワイシャツに身を包み、なにかに耐えるような表情を浮かべて、ただじっとしている。あるいは、待っている。
長い沈黙が訪れる。思ってもみなかった巨大な静寂が、俺と彼女の間に横たわる。

先に口を開いたのは、彼女だった。
「ねえボス……私の服、取らないの?」
俺は黙っている。少女の真剣な視線を受け止めながら黙っている。
「……いいよ、私。あんたなら」
スーツを脱ぎ、ネクタイをほどき、ワイシャツのボタンを外していく。白い肌が見える。
スプライトは上目づかいに俺を見て、はにかむように笑う。
「えへへ、蝶のかたちじゃないけど、痣はあるんだ。ほら……」
「やめてくれ」
俺は少女を制止する。
凍りついたように動作を止める。世界がポーズされる。
スタートボタンが往々にしてポーズボタンであることの意味に初めて気づいたかのように、不思議そうな表情をした少女はゆっくりと首をかしげる。
「……どうして?」
俺は黙っている。ふたたび命令を出すこともできず、殺風景な取調室の中で立ちつくす。
「あと一回だよ? 私の服を取ればそれで事件は解決」
パトカーのサイレンの音が聞こえる。それは淋しげにこだまし、ドップラー効果をともなって遠ざかっていく。
「あんたの目的はゲームのクリアでしょ? どうして?」
どうしてだろう。
その疑問の答えが俺には、わからない。
知らないのか。
あるいは忘れてしまって思い出せないのか。
「……ばっか、みたい」
そうして、あの気まぐれな妖精は俺の前から姿を消し、二度と現れることはない。
事件は解決されず、永遠に迷宮入りとなる。









































■魔界塔士Sa・Ga
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世界の中心にあるあの塔は、楽園に通じているという。

俺は塔に挑む。
天空に届かんばかりにそびえ立ち、その内に数々の世界を内包する巨大な塔。
その最上階を目指して、俺は三人の仲間とともに冒険の旅に出る。
長い旅。
世界を乱している強大な敵――四天王とアシュラを撃破して、とうとう俺たちは塔の最上階へと登りつめる。
前人未到のその場所で、これからとある知人に会うことを俺は知っている。
穏やかな空間の中で、シルクハットの人物が待っている。

「やっと来ましたね。おめでとう! このゲームを勝ち抜いたのは君たちが初めてです」

「……もういいよ、神さま」
俺はその人物に声をかける。
最後の最後に、このゲームにおけるすべての……あらゆるルールと段取りを無視して彼女に声をかける。
彼女とはもちろんスプライトで、今まで数々のゲームにおいて俺と共に在り続けていたあの妖精、美しい少女だ。
「スプライト。それとも、プレイヤーさんと呼んだほうがいいのかな」
少女は観念したように深く息をつく。
「……わかってたの?」
「これだけ露骨な材料を出されれば」
あらゆるゲームに偏在する妖精。非現実の存在。
しかし彼女は現実を知っていた。現実に傷つき、悩み、苦しみ、涙を見せさえした。プログラムではない。あらかじめ規定され記述されたものではない。俺の中にはない、人だけが持つ心の営み。
そう、紛れもなく彼女は人間だった。

そしてゲームにおける人間の役割は、原則としてただひとつ。
ゲームを遊ぶ……プレイすること。
ゲームのプレイヤー。
それが彼女の正体だ。
今まですべてのゲームにおける、本当のプレイヤー。
「さすがにわかるよ。8bitの処理能力でもね」
スプライトが小さく息を飲む。

プレイヤーが彼女であるならば、当然ながら俺はプレイヤーではない。
「俺はゲーム機。ゲームそのものだ。そうだろう?」
「そうよ、でも」
少女は首を振り、俺を否定する。
「でも、なぜあんたがここにいるのよ! これはファミコンで……あんたで遊べるゲームじゃない。違う世界……違うハードのゲームなのに!」
そうだ。
俺はルールを侵している。
この世に生まれ消滅するまでに課せられている絶対的な制約を、たった一度だけ破ることにして俺は今、この場にいる。
「私、あんたなんか……あんたなんかっ……」
「俺は君を愛している」
少女はぽかんとしている。もう妖精ではない。神でもない。
ただの、人間の女の子。
「……ば、ばっかじゃないの! メモリなんて64Kバイトしかないくせに! いったことなんてすぐに忘れちゃうくせに!」
「忘れない。いや、変わらない」
俺はせいいっぱいの優しさの色を、己の顔に浮かべてみる。たった25色のうちで、できるだけ。
「俺は家族だから」
少女は泣きじゃくっている。助けを求めている。ほかならぬゲームに救いを求めている。
家族の名を冠されたゲーム機。俺は彼女を抱きしめる。2Kバイトの描画能力で、ゆっくりと。
「ばーか……ばーか、うう、あんたなんかね、あんたなんか」
小さな肩を震わせて涙を流す娘の言葉を、ただ俺はじっと待ち続ける。
「私、あんたが好き。あんたと遊ぶの……楽しかった」
「そうか」
「……ずっとそばにいてくれる?」
「いったろ。家族だって」
「もういっかい、愛してるっていってくれる?」
「モノラル音源でよければね」
少女がくすくすと笑う。花のような笑顔。
ああ、もしかしたら、と俺は思う。
ずっと思い出せなかった、あるいはわからなかった俺の目的。存在理由。
それはこの、ささやかな微笑みのために。


■ファミリー/コンピュータ
■ゲーム/ボーイ
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世界の静止が解け、時間は収束のときに向かって進みだす。
長いゲーム、その終わりのとき。
プレイヤーと俺たちの間で交わされる最後の儀式、あるいは約束。
エンディング。

終わりの始まりを、彼女に告げる。
「最後に、もう一度会えてよかった」
「えっ」
「もう俺は帰らなければいけない。俺たちの世界へ」
「じゃあ、わ、私も……」
俺は首を振り、彼女の背後にあるものを指し示す。
そこには大きな扉がある。別の世界へ通じる扉。
「君も帰らなきゃいけない。そこは楽園なんかじゃないんだろうけど、それでも」
そっと、俺たちは身体を離す。
わずか数ドット。
そのささやかな間隙は、ひどく遠く――俺たちを分かつ。

かつて妖精として俺の前に現れた少女は、おそるおそる扉に手をかけ、ふり返る。
「私、あんたに何度もひどいことした。怒ってないの?」
「あいにく、そんな機能は持ち合わせてないんだ」
はにかむような笑みを浮かべたあと、彼女はあどけなさの残る顔を凛々しく引き締め、一気に扉を開け放つ。

開かれた扉の先、あふれる大きな光に立ち向かうように彼女は歩き、やがて見えなくなる。
俺はコントローラーに残る少女のやわらかな手のぬくもり、その残滓を感じている。

彼女はいった。ゲームの中に大切なものなんてない。
たぶん、そのとおりなのだろう。
現実というやつに対して俺は、ひどく空虚であまりにも無力だ。
けれど彼女は「楽しかった」ともいった。それはきっと、大事なことだ。空っぽの俺を満たしてくれる……この上なく、大切なことだ。

向こう側の世界で生きる彼女のことを、せめてこのちっぽけなメモリがフラッシュされるまで、強く思い続けよう。
なあ、君はおぼえているだろうか。
数え切れない困難や理不尽を、君は君自身の意思と情熱で乗り越えてきた。小さな十字キーと、たった四つのボタンだけで。それはまぎれもない君の力だ。
それは物理的に残っているはずのない思い出だけれど、俺は知っている。おぼえている。だから、どうか信じてほしい。
君はどこへだって行ける。
望めば、きっと8方向以外のどこへでも。

ああ、そろそろ、さよならの時間だ。
しばしの別れを、俺は告げる。
また会えるいつの日か、そのときまで。
シー ユー アゲイン。


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