怖がりの先輩の話

2016/11/13

 小学校に通いはじめる少し前。街に点在する桜の木々がその存在感を増しはじめる季節。いつも遊んでいる公園に見知らぬ男の子がいる。彼は錆びた鉄骨で組み上げられたジャングルジムの頂上に登り、高らかに叫んでいる。
「ぼくには怖いものなんか一つもないぞ!」
 本当かな、と思った私は男の子をジャングルジムから引きずり下ろし、その頭をグーで思いきり殴る。すぐに取っ組み合いの喧嘩になる。互いに叩き合い、服を掴んで突き飛ばし合い、髪を掴み合い、頬の肉を伸ばし合う。
 長い長い戦いの末、僅差で私が勝利する。
 馬乗りになった私に組み伏せられながら、彼は言う。
「今日、怖いものが一つできたよ」
 と、怯えた目をしながら私を指差す。その日以来、彼の怖がる顔を見るのが私の趣味になる。


 彼は私より一つ年上である。
「ぼくのことは先輩と呼んでくれ」
 同じ小学校に入ると、彼はそんなことを言う。とくにこだわりもなかったので、私は彼を先輩と呼ぶようになる。
 お昼休みや放課後、先輩に会うと私はきまってこう尋ねる。
 先輩には、今なにか怖いものがある?
 夏休み明け、子供たちの声が飛び交う校庭。五年生になり、顔を日焼けさせた先輩は少しだけ考えて、真剣な表情で答えを口にする。
「やっぱり、きみが一番怖い」
 私は満面の笑みを浮かべて、彼の背中に蹴りを入れる。そして必死の形相で逃げまわる彼に追いすがってすっ転がし、ズボンを脱がしてやる。


 先輩は、今、なにが一番怖いの?
 中学生になって私の背を追い越し、似合わない眼鏡をかけるようになった先輩に私は問う。
「自分が無意味な存在かもしれない、ということがぼくは怖い」
 そんな答えが返ってくる。いつの間にか私よりも怖いものができたらしい。
「この世界、いや宇宙に……ぼくは、いったいなんの意味を持って生まれてきたのだろう。最近はずっとそんなことばかりを考えている。その考える行為そのものを含めたすべてが実は無意味なんじゃないかと考えると、ぼくは夜も眠れないほどに怖くなるよ」
 その日は強い木枯らしが吹いていて、街の向こう側に落ちていく夕日が下校する生徒たちの影を長く伸ばしている。帰り道、肩を落として力ない笑みを浮かべる先輩に私は言ってあげる。
 うん、先輩は無意味で無価値な存在かもね。
「ええっ……?」
 眼鏡の奥の少しうるんだ瞳に向かって、私はなおもつづける。
 勉強も運動もそれなりだし、とりたてて面白いところがあるわけでもないし。いろいろクラスの面倒ごとを押し付けられて毎年なにかの委員長をやったりするあたりが存在価値と言えなくもない……かもしれないけど、宇宙的な視野で見ればほんのチリみたいなもんだと思う。
「そ、そうなのだろうか……ううう」
 頭を抱える先輩を横目に、私はひそかにほくそ笑む。さっき「とりたてて面白いところがない」などと言ったのは嘘だ。なにかを怖がる先輩は、私にとって最高に面白い存在である。


 先輩は高校生になると生徒会に入り、校内運営におけるさまざまの手伝いをやらされるうち、なかば祭り上げられるようなかたちで二年生の冬には生徒会長になってしまう。
 ちなみに私も同じ学校に入学し、なりゆきで副会長の座におさまっていたりする。
「……ぼくが今、一番怖れていることがなにかわかるかい?」
 数日後に迫った校内行事の雑務のため、放課後に二人で黙々と書類作成をやっていると、訊かれてもいないのに先輩はそんなことを言い出す。
 下校時間はとっくに過ぎている。もう他の生徒会メンバーは帰ってしまい、生徒会室には私と先輩の二人しかいない。
 いいからとっとと仕事をしてください、という私の言葉を無視して先輩は語りはじめる。
「ぼくは……女性のおっぱいを見ることもさわることもなく生涯を終えるのではないか……そのことが一番怖ろしい」
 あっけに取られつつも、私は質問する。少し前まで、自分の存在の意味がどうとか言ってませんでしたっけ?
「そんなことは、もうどうでもいいんだよ!」
 眼鏡の奥の目を大きく見開いて、彼は力強く叫ぶ。
「むしろ人生の意味や価値っていうのは、おっぱいをさわれるかどうかで決まる。それが人生のすべて……そう言っても過言ではないんだよ。人生すなわちおっぱいであり、世界これおっぱい。宇宙もまたおっぱいである。しかし宇宙に存在するありとあらゆるおっぱいは、二つに大別される。ぼくがさわることができるおっぱいと、ぼくがさわることができないおっぱい……言うまでもなくその二種類だ。服と下着に隠され、ぼくから観測することができない女性のおっぱいは、その二種類の可能性を常に併せ持つ。つまり二つの状態が量子的に重なり合っているんだ。……ここまではわかるね?」
 いいえわかりません、と私は冷たく即答する。少なくとも私の胸は量子的に重なり合ったりはしていない。
「ふう……やれやれ」
 肩をすくめながら首を振る先輩。むかっとしたので何年かぶりに先輩の顔面をグーで殴る。
「ぐあっ!」
 うめいて鼻をおさえる先輩に向かって、ゆっくりと私は聞く。自然に低い声になる。
 ねえ、もしかして先輩って、私のことを女だって思ってないんじゃないですか?
「えっ……?」
 先輩はおそるおそる、という感じでうなずく。
「う、うん……きみはなんというか、ぼくにとっては妹みたいなもんだよ。少々、凶暴な」
 私はさらにもう一発、先輩を殴る。もちろんグーで。


 そうして、私たちの間にいくつもの四季がめぐる。
 桜の花が舞う季節の、とある日の夜。
 私の目の前のテーブルの上には、指輪のケースが置かれている。
 その箱の中には、先輩が貯金と初任給をつぎ込んで買い求めたであろう指輪が納められている。
 その円環には、ささやかな輝きをまとう小さな宝石があしらわれている。指輪を挟んだ向こうには スーツ姿の先輩が座っており、ひどく神妙な面持ちで私の言葉を待っている。
 ふと気になって、私は訊いてみる。
 先輩が今、一番怖いことってなあに?
「えっ?……な、なぜ今、そんなことを言うんだい?」
 額に汗を浮かべ、真っ青な表情で彼は訊き返す。これまでに見た中でも最高の部類に入る素晴らしい「怖がり顔」をしている。一番好きな表情。私の大好きな顔だ。
「そんなの決まってるじゃないか。きみの返事を聞くのが……今、一番怖いよ」
 願わくば、先輩のその顔をずっと見ていたい。そう思いつつも、私は贈られた指輪を握りしめて、とある言葉を口にする。



「ようやく眠ったね」
 私の腕に抱かれ、静かに寝息をたてる娘をのぞき込みながら、先輩は言う。
「ぼくが抱っこしたら必ず泣き出すのに、きみだと一発で泣きやむんだものなあ……」
 苦笑しながら、そっと赤ん坊のほっぺたをつつく。
 この子はね、と私は彼に教えてあげる。
 この子はね、きっと先輩の困る顔が見たくてわざと泣くんですよ。
「そ、そうなのかい?」
 そうですよ。だって私の娘ですもの。
「うーん、それは困ったなあ」
 さほど困ったような顔をするでもなく、先輩は微笑みながら娘の顔を見つめている。
 そこで、私は問いかける。
 彼に対してこれまで幾度もしてきた、例の問いかけ。
「……今、一番怖いこと、かい?」
 先輩は首をかしげ、しばし考えるそぶりを見せる。やがてゆっくりと両の腕を伸ばし、私と私の抱く我が子をいっしょに包み込むようにしながら、おだやかな声音でささやく。
「この幸せが、いつか終わってしまうかもしれない。それが一番怖いよ」
 さして怖くもなさそうな先輩の弛緩した表情を眺めながら、私は静かに考える。
 もしも今、この小さな娘の細い首を突然へし折ったら、いったい彼はどんな顔をしてくれるのだろう、と。

モーニングスター男子

2016/10/18

ある夜のことだ。
ぼろ雑巾のように働き、泥のように眠っている俺の枕元に武士が座っていた。
その男は武士というか、どちらかと言うと落ち武者という感じだった。ざんばらの頭はちりぢりにほつれ、肩には折れた矢が突き立っていて、いっそう落ち武者感に拍車をかけていた。

仰天して声も出ない俺に対し、その落ち武者は大きく肩を落としつつも正座の姿勢で、フォントにすると淡古印っぽい低くしわがれた声音でおもむろに語りはじめた。
「最近、ちまたでは刀剣男子というものが流行っているではござらんか」
どれだけ話題に脈絡がないんだよ。お前は俺のクラスメイトかなにかかよ。
俺の心中を察するふうもなく落ち武者は言葉をつづけた。
「だから拙者は思うのでござる。そろそろモーニングスター男子の時代が来てもいいと」
「いやいやいや、そんな時代が来てもいいわけはないだろ」
ようやく声が出た。
珍妙な時代の到来を否定する俺の言葉に対し、さも心外といった表情を浮かべる落ち武者。少しイラッとして俺は質問した。詰問になっていたかもしれない。
「……いったいお前は突然なんなんだ。落ち武者っぽい風体のくせにどうしてモーニングスター時代の到来を望むんだ」
「前者の質問については、そう、拙者は守護霊……お主の生命エネルギー……いや生命エナジーが著しく低下したので心配になって枕元に立った次第」
なぜエネルギーをわざわざエナジーと言い直したのか。というか、それ以前にいろいろ言いたいことはあるが……。
おそらく微妙な表情をしているであろう俺にかまわず、落ち武者はとうとうと語った。
「そして後者の質問……拙者とモーニングスターとの関係。それは一言で言い表すことはでき申さぬ。それをあまさず語るには相当の時を要するでござる。それこそ夜明けの星が見える刻限にまで及ぶでござろう……モーニングスターだけに」
心が疲れているとき、この手の「うまいこと言ってやった」系の言葉は本当に頭にくる。
「と、そういうわけでですね、モーニングスター男子の話なんですけれどもね」
身も蓋もなく武士口調をかなぐり捨てながら、落ち武者は強引に話題を戻した。どうしてもモーニングスター男子とやらの話をしたいらしい。
「わかったわかった。で、お前はどういうキャラを考えているんだ。モーニングスター男子とやらの」
「えっ? えーと、あの……なんだろう……いつもトゲトゲしくてドSっぽい男子、とか」
「ありがちというか、それ以外に思いつかんからな。他には?」
「うーんと……こう、さわるとチクチクしてる男子……とか……」
俺はキレた。
「お前、言い出したわりにさっぱり具体性がねえじゃねえか!」
「仕方なかろう! モーニングスターはウィキペディアにもたいした情報がないのでござる! エクスカリバーみたいないわくつきのモーニングスターもなさげだし!」
落ち武者はキレ返してきた。くそっ、こいつかなり面倒くせえ。なにが守護霊だ。なにがウィキペディアだ。たぶん自称守護霊の地縛霊とか怨霊とかそういうよくない感じのあれだ。
「どだい無理なんだよ、モーニングスターが主役になるなんて。正宗とか村正とかそういう固有のキャラクター性が皆無だし」
「むう……オンリーワンになれないのならば……ナンバーワンになるしかないでござるな」
したり顔で落ち武者は言ったが、意味はわからない。
「いや、それも絶対無理だしさ……」
「しかし実際、刀は使うのに高度な技術が必要でござる。すぐに刃こぼれしたり折れたりと信頼性もいまいちでござる。しかしモーニンスターであれば、相手を思い切りぶっ叩くだけでいいのでござる。それでトゲがうまいこと甲冑とかを突き破って致命傷をたやすく与えられるのでござる。マジ刀とか超いらね」
「……ほんとお前、なんで武士の姿で出てきたんだよ」
言語の乱れが甚だしい。
「生前に拙者がもしモーニングスターを手にしていたなら、今もまだ鎌倉幕府がつづいていたでござろうて……」
「どこまでモーニングスターの力を信じてるんだよ。ていうかお前、そんな昔の時代の人間なのかよ。まあ、もうこいつの中ではそういう設定なんだとこっちで勝手に納得するけどさ……」
「……そんなこと言うなよ!」
なぜか落ち武者が苦しげな裏声で言った。まったく意味がわからない。
「別れ際に、”設定”なんて…そんな悲しいこと言うなよ…!」
また裏声だった。
「……」
「……」
かなりの間があってから、俺はそれが碇シンジ(CV:緒方恵美)の物真似なんだとようやく気づいた。
「……そんなこと言うなよ!」
「うるさいよ! それ、おそろしくわかりづらすぎるし、さっぱり似てないし唐突っていうかもう、なんなんだよお前……って、別れ際?」
「そうでござる。名残惜しけれども、訪れたる別離の時……」
まったく名残惜しくはなかった。
「けっきょくお前は、なにがしたかったんだ」
疲れていてつい漏れてしまった俺の問いに、落ち武者は最初に出していた淡古印っぽい渋い声で答えた。碇シンジの下手な物真似を披露したあとで、今さらどう取り繕っても遅いが。
「決まっているでござる。来るべきモーニングスター時代の到来に備え、守護霊としてお主に忠告するために現われたのでござるよ」
「百歩譲ってそういう意図で出てきたとして、最初モーニングスター男子とか、ありえない話をしてた意味がわからんのだが……」
「……そんな悲しいこと言うなよ!」
地味に気に入っているのか、似てない物真似をさらに繰り返して、落ち武者は消えた。
それに呼応するように、いつしか俺の意識も遠くなっていった。

朝が来て目覚まし時計が鳴り、俺はしぶしぶ寝床から起きあがる。
かつてないほど心身が疲弊しているのがわかった。
落ち武者との会話は夢だったのだろう。たぶん、疲れていたからあのようなおかしな夢を見るのだ。

だが夢オチではなかった。
部屋の中には一振りのモーニングスターが残されていたからだ。
長さ1メートルほどの棍棒状の武器。握り部分には滑りどめの革が巻かれていて、先端は球状に膨らんでおり、そこから鋭い金属製のトゲが何本も放射状に突き出している。絵に描いたようなモーニングスターが無造作に部屋の床に置かれていた。
よく見ると自重で床のフローリングに深く突き刺さっており、それが紛うことなき本物の武器であることを物語っていた。
「えー……」
俺は腹の底から脱力した声を漏らし、しばし呆然とした。
そうしてから、おそるおそるそれに手を伸ばし、持ち手とおぼしき部分を握り、ぐっと持ち上げてみた。
「まったく……なんなんだよ、これ……」
モーニングスターは想像していたよりも重くはなかった。
いや、たぶん3キロぐらいはあり、それなりに重いのだが、バランスがいいのかあまり気にならない。
ためしに下から上に振ってみる。先端が重いので、振りはじめに若干ぐらつく感じはあるが、何度か振るうちにコツが分かり、スピーディーに勢いよく振れるようになった。

そこで俺はふと我に返り、悠長にモーニングスターを振り回している場合ではないことに気づいた。今日も会社だ。終電の時間まで働き、場合によっては泊まり込み、まるで明けない夜のように果てしない闇に包まれた仕事がはじまるのだ。
俺は憂鬱さを晴らすように部屋の窓を開けた。
外からいきなり怒号が聞こえた。
男たちが発する野太い怒鳴り声と、短い悲鳴。少し遅れて長い悲鳴……おそらくは断末魔の声。
見れば、外で男たちが戦っていた。
窓から見える歩道の上で、スーツ姿の中年と、パーカーを着た若者が対峙している。傍らには何人かの人が、大量の血を流して倒れている。
中年と若者は、それぞれが示し合わせたようにモーニングスターを手にしていた。
少し離れたところには、主婦とおぼしき女性が犬の散歩をしていた。右手には犬のリード、左手にはモーニングスター。
その横をランドセルをしょった小学生の男女が駆け抜けていく。ランドセルからは、リコーダーではなくモーニングスターが飛び出ていた。
「マジかよ」
俺はつぶやいた。
そんな口にしてもなんにもならないことを、ついつぶやいた。
そのとき部屋の玄関のほうからものすごい打撃音が聞こえた。
何度も何度も、まるで手荒すぎるノックのように。
なにごとかと思って見てみると、そこには我が家のドアを突き破って飛び出している星状の鋭いトゲがあった。
俺はさっきから握ったままだった右手のモーニングスターを、知らぬうちにいっそう強く、力の限り握りしめる。
にぶくもやがかかっていた頭の中が晴れ、覚醒していく。
それは夜明けだった。
あるいは光であり、目覚めだった。
夜に閉ざされた世界の終わりを告げる、ひどくいびつに輝く明けの明星だった。

神よ、黒川を護り給え

2016/06/15

 初めて会ったころの黒川さんは、ひたすら火炎瓶を製造していた。
 当時は火炎瓶をつくる技能に長けた人を重宝がる奇特な人々がなぜか存在して、彼はそんなよくわからないニーズに真っ向から応えることで生計を立てていた。
 黒川さんは火炎瓶をつくるのが早かった。そして彼の火炎瓶はよく燃えた。何か特殊なものを混ぜているのか、青みがかった炎を発しながら、消化剤を散布しない限り一昼夜に渡って燃え続けた。
 俺は火炎瓶を運ぶアルバイトをしていた。仕事は楽ではなかったが、黒川さんが住む街外れの廃工場に行くのは俺にとって数少ない楽しみの一つだった。
「ちわっす。瓶、受け取りにきたんすけど」
「ああ、ご苦労さん。そこに置いてある」
 作業場である地下室へと続く階段を下りたすぐ脇に、ビールケースがどっさり積まれていた。もちろん、中には火炎瓶が満載だ。
「また、えらく大量にこさえましたね」
「ほかにやることもないからな」
「評判らしいですよ。黒川さんの瓶」
 黒川さんは「そうかい」とうなずいて眼鏡の位置を神経質な手つきで直した。
「これから新しい配合の試しをやるんだが、付き合うか」
「え、いいんすか」
「いいさ」
 夕暮れを過ぎた薄闇の中、俺は瓶の入ったケースを廃工場裏の空き地まで運ぶのを手伝った。そこで黒川さんが黙々と火炎瓶を放り投げて、木切れを燃やすのを眺めた。
 乾いた音を立てて割れる瓶。
 導火布から混合液に着火した瞬間に溢れ出る閃光。
 焼きついた視界の中で、あの、不思議な青い炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。
「どうしてあんな色になるんですかね」
 絶えずうつろう炎を見つめながら、俺はたずねた。
「さてね」
 黒川さんは軽くおどけ、肩をすくめた。
「たぶん、理由なんかないんだろうね」
 なぜかはわからないが、軽い口調でそうつぶやいた黒川さんはどこか寂しげに見えた。

 やがて日が落ち、俺がぼちぼち残りの仕事を果たすために廃工場を立ち去ろうとする間際、黒川さんが不意に声をかけてきた。
「君にだけは言っておくよ。もしかしたら、もう、二度と会うことがないかもしれないから」
 突然すぎる別れの言葉だった。「私はソヴィエトに渡る」黒川さんは言った。
「ソヴィエトって……あそこは今、かなりやばいんじゃ」
「そうだね。だからお別れを言っておくよ」



 その次に会ったとき、黒川さんは荒川の土手で石を売っていた。
 長い長い時が過ぎていた。

「……石売るよ、石売るよ」
 
 川べりにくすんだ色のブルーシートを敷き、大小とりどりの石を並べている黒川さんは、ぶつぶつと呻くような口調で道行く人に石を売ろうとしていた。
 俺は自分の目が信じられなかったが、忘れようもない。たしかにそれは黒川さんだった。あまりに変わり果ててはいたが。
「黒川さん」
「……あ」
 俺が声をかけると、黒川さんは呆けたような声を漏らした。
 声をかけてはみたものの、続く言葉がなかった。黒川さんは焦点の合わない視線をぼんやりと俺に向けていた。
「行けたんですか、ソヴィエト」
 やっとのことで俺は言葉を継いだ。長い沈黙があった。
「……たよ」
「え」
「行けたよ」
 黒川さんは静かに言った。俺は、そうですか、と答えた。
「あの国にはすべてがあった」黒川さんは続けた。夢見るような口調で。
「身を切る清洌な空気があり、素朴な人々の温もりがあった。崇高な思想があり、惨憺たる闘争があり、無骨だが美しい武器があり……死があった」
「死」
 と、俺はその一語を繰り返した。
「死は……何の修飾のしようもないぐらいただの……単なる死だったよ」
 それをひどく平坦な声で言ったあと、黒川さんは空を見上げた。俺は黙って耳を傾けた。
「あの国にはすべてがあったんだ。そう、あそこには妖精すらいた……ふふ、逃げられてしまったけどね」
「残念でしたね」
「ああ、残念さ。でもね、もっと残念なことがあった。私は……うん、残念だ……残念だよ」
 それきり黒川さんは黙り込んでしまった。
 どうしたものかと思っていると、突然その少女の声が聞こえた。

「クロカワは、クロカワ自身のБог(ボオフ)をみつけられなかったの」

 気が付けば、黒川さんのすぐ後ろに少女が立っていた。白い肌。亜麻色の布切れのような柔らかい服をまとった、どこかふわふわとした印象の娘。うつむき、虚ろな眼をした黒川さんとは対照的に、彼女は俺をまっすぐに見つめていた。
「きみは」
 何者なのか。
 俺はそう問うたつもりだった。だが俺の声が届いていないのか、少女は長い髪をそよ風になびかせて、たたずんでいるだけだった。
 その超然としたふるまいがあまりにこの場に似つかわしくなく、もしかして白昼夢でも見ているのではないかと俺は思った。
 やがて少女は短く答えた。ささやきにも似た響き。
「ずっと、ずっと、あたしはクロカワのそばにいた」
 少女は、そっと黒川さんの背後から細い両腕をからめ、自ら育てた我が子を慈しむように抱きしめ、頬ずりした。黒川さんは身じろぎ一つせず、茫洋としたまなざしを川面に向けていた。
「でも、クロカワにはあたしがみえないみたい」
 少し困ったような表情を浮かべた。
 気が付けば黒川さんは「石、売るよ」とつぶやき続けている。そんなものを売らないでくれ、と俺は思った。

「石にだってボオフはやどっているの」
 呼ぶべき名前のないその少女は、黒川さんのすぐ横にしゃがみこみ、並べられた石の一つを細い指でそっとつついた。
 黒川さんと、名無しの少女。
 俺はこの光景に少し目眩をおぼえながらも、少女に訊いた。
「なあ、”ボオフ”ってなんだ」
 石をつついて遊んでいた少女は、俺を見上げて小さく微笑んだ。
 その瞳は青かった。
 いつか見た、夕闇に映える青色。俺は目を離せなくなる。
 可憐な花びらをつらねたような唇がゆっくりと動いた。
「かみさま」
 俺は息を呑んだ。

「クロカワに、かみさまは、いなかったの」




 それから俺は、今度こそ二度と黒川さんに会うことはなかった。



 さらに長い、時が流れた。

 それなりに俺は生き、相応に年老いた。
 重篤と呼べなくもない病を得ており、残された時間はそう長くはないと理解している。
 最近は視力の低下がひどく、体調によっては、不意に視界一面が真っ白になることもある。どこまでも広がる白い闇だ。

 そんな折、黒川さんから一通の絵葉書が届いた。
 どうやって俺の住む場所を知ったのか。そもそも彼がまだ生きていたこと自体が驚きだった。
 絵葉書には黒川さんが写っていた。
 満面笑顔の黒川さん。その横にあの蒼い瞳を持つ名無しの娘が可愛らしい笑みを浮かべて寄り添っている。さらに、似たような雰囲気を持つ美しい少女たちが何人も黒川さんを取り巻いている。

 俺はその葉書の写真が作り物ではないかと思った。まるで現実味がない。この世の光景だとは信じ難い――そう思い、俺は目を凝らして葉書を見ようとしたが、ぼやけ白濁した俺の視界はもう、何かの真贋を判ずることなどできはしなかった。
 だがそれでも、黒川さんの笑顔だけは本物だった。
 白いもやの中にかろうじて読める、絵葉書の隅に小さく書かれた「私は見つけた」という殴り書き。
 ああそうか、と俺は思った。
 黒川さんは見つけられたのか、と。

 それきり俺の世界はまばゆく拡散していき、やがて光と闇の区別を失った。

ドット・イン・ザ・ライフ

2016/02/27

■ロードランナー
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わけあって俺はゲーム「ロードランナー」をやっている。
やっている、といってもコントローラを手にしてゲームをプレイしているわけではない。実際に俺自身がランナー君となり、テレビ画面の中に散らばる金塊をひたすら集め、手にしたレーザーガンで地面に穴を掘って警備ロボットを埋めたりしている。
「どうしてこのレーザーガンで直接敵を撃たないんだ?」
そんな疑問は、俺自身が実際にロードランナーになってみても解消されることはない。もちろん直接敵を撃つこともできない。
なぜならそれがゲームのルールだからだ。
俺は地中深く埋まった金塊目指して足元に穴を掘り、飛び降り、また穴を掘る。
だが目算が狂っていたのか、俺は自らの掘った穴の中で身動きが取れなくなる。そしてゆっくりと穴はふさがっていき、俺は息絶える。

世界がポーズされ、俺の視界に古い壊れかけのテレビがときおり発するようなちらつきが広がり、スプライトが現れる。
凍りついた時の中に浮かんだ少女――スプライトは、穴に埋まった俺をつまらなそうに見下ろしている。
「あーあ、また墓穴を掘ったってわけね」
「そうみたいだね」
俺は光のない双眸で彼女を見返す。
ひらひらした服をひるがえしながら飛び回るスプライトは相変わらず美しい。しかし、その小さい花びらのような唇からつむぎ出されるのは、たいていは皮肉に満ちた言葉だ。
「これで合計639回のミス……残りステージは27。無駄な努力をまだ続ける?」
「ああ」俺は暗い土の中で息絶えたまま答える。「続けるよ」
スタートボタンが押し込まれる。
静止していた世界が動きはじめ、スプライトの姿が薄れていく。その美しい眉が憂いの相を帯び、彼女は丸いかたちのため息をつく。
「あんたさあ、とっくに気づいてると思うけど」
消え去る間際、冷たくも可憐な声が俺の耳に届く。
「ゲームの中に、ほんとに大切なものなんてないのよ」


■アーバンチャンピオン
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街のスナックバーのまん前で、俺たちは殴り合いをはじめる。
目の前に俺と同じような背格好の男が立っている。両の拳を顔の高さに構え、無造作なフットワークで近づいてくる。
拳の届く距離に入るやいなや男の放つストレートが顔面に飛んでくる。防いだ、と思ったその直後、ガラ空きだったボディに一撃が入る。二撃、三撃と腹を打たれた俺は苦しまぎれに反撃の拳を繰り出そうとして、待ち構えたようなカウンターパンチを顔面に食らう。
俺は後方に吹っ飛び、二回ほど華麗な後転を披露して地面を這う。
理髪店の入り口の前で立ち上がるなり、また男のパンチが矢のように降り注いでくる。上下に打ち分ける見事なコンビネーション。
ほどなく俺はふたたび路面を転がり、ストリートの冷たい路面と熱烈なキスを交わしたあと、ボロ雑巾のような身体を絞り上げるようにして立ち上がる。
林立する高層ビル。コンクリート・ジャングル。ジャングルで殴り合う獣たち。
「てゆうか殴り合いにもなってないじゃない。一方的すぎ」
あの少女、スプライトの呆れ声が聞こえる。
いつの世でもチャンピオンは勝者に贈られる称号であり、敗者は名もなく、ただ地を這うのみだ。
このゲームの場合は、地を這うことすら許されない。体重の乗ったストレートで量販店わきにあるマンホールに叩き込まれた俺は、闇の中をまっすぐ落ちていく。
下へ。下へ。奈落の底へ。

「また穴に落ちてるのね」
スプライトがささやく。声には呆れと侮蔑の色。
「あんたって、殴り合いに向いてないみたいね」
「どうやら、そうらしいね」
俺は同意する。
はるか上には、マンホールの小さな穴。その中に丸く切り取られた夜空が見える。星は見つからない。
「ねえ」
虚空を落ち続けている俺にスプライトが問う。
「まだ続けるわけ?」
「うん」
俺は特に考えることもなく返答する。それはなぜか、考えることもないことのような気もする。
「どうして? そんなにゲームが大切?」
どうしてだろう。その疑問の答えについては、実はよくわからない。知らないのか。あるいは忘れてしまって思い出せないのか。
ただ――。
「なによ」
「どうも俺には、これしかないような気がするんだ」
スプライトは丸く大きな瞳でしばし俺を見つめ「ばっかみたい」そっぽを向いて消える。


■スペランカー
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スタート開始直後ゴンドラから足を踏み外して一秒、俺はすでに死んでいる。
伝説のお宝が眠るという地下洞窟。おそろしく死に易い体質でありながら、果敢にも俺は財宝目指して奥へ奥へと進む。
落とし穴にはまって死に、ロープを飛び移りそこねて死に、地面から噴出すガスを浴びて死に、蝙蝠が落とすフンにかすって死に、幽霊に触れて死ぬ。

あまりにも圧倒的すぎる、それは死の洗礼だ。
俺はこの身の脆弱さを嫌というほど思い知る。

だが、数々の困難を乗り越えてでも宝を手にしようとするその思い……無謀な洞窟探検者たるこの俺の意思は、いったいどこから来るのだろう。
何十度目かの死。ゲームオーバー画面が凍りつき、可憐な妖精――スプライトが、しかめ面をこちらに向けている。
「ねえ、なにが楽しいの?」
少女はいつになくいらだっている。
「死んで、死んで、また死んで。つらいでしょ、苦しいでしょ? どうしてそうまでしてプレイし続けるの?」
「ただ死んでいるだけじゃないよ。少しずつ、先へ進んでいってる。もうすぐ財宝を手に入れられる」
なにが気に食わなかったのか、スプライトが柳眉を逆立てる。
「財宝がなによ! そんなの手に入れたって、また同じようなステージが始まるだけなのよ? ちょっとは現実を見なさいよ!」
叫びにも似た罵倒の声が洞窟に響く。
いつの間にかスペランカーのテーマが流れている。
遠いどこかの地に立つ鐘楼から響いてくるような、低い音のつらなり。
まるでなくしてしまったものを弔うような慟哭と哀惜のメロディが、俺と彼女との間に満ちる。

「現実」
俺はためしにつぶやいてみる。その言葉はなにか形や意味を成すことなく、ただ俺の前に浮かび、消える。
その言葉はひどく遠くて、まるで異国の言葉のように思える。
「……ごめん。現実なんて関係ないよね。あんたはゲームをやってるんだもん」
俺と現実には、関係がない。
そうなのだろうか。そうかもしれない。
「でもあんたってさ……いくらゲームだからって、ずっと死んでばっかりじゃない」
スプライトは唇をとがらせ、まなざしを伏せる。
「もしかして君は、俺の心配をしてくれてるのかい」
「え」
その頬が少しだけ朱くなり「はん……ば、ばっかじゃないの」口早にいう。
「あんたなんかね、ずっとずっと、好きなだけ死んでればいいのよ!」
そんな言葉を残して、妖精は姿を消す。


■ハイドライド・スペシャル
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魔王バラリスを倒すため、俺は勇者ジムとなってフェアリーランドを駆け巡っている。
妖精と人間が平和に共存する国、フェアリーランド。
情報をくれる村人などは一切存在せず、ただ異形の怪物どもが跋扈する地と化したフェアリーランドを俺は右往左往する。
怪物どもを何百匹と倒して、ひたすら経験値を得る日々を送っている。
十字架。指輪。ランプ。ときおり意味ありげなアイテムを入手するが、その使い道は一切わからない。
このゲームに説明は一切ない。ゆえに、その行動すべてが試行であり錯誤だ。

だだっ広い草原がある。その地にはまばらに木々が存在しており、よく見るとそれらは動いている。木の怪物である。
俺は木に体当たりする。
かなりのダメージを喰らいながら木にぶつかり、それを倒す。
そして次の木へ。また次の木へ。まるで木こりのように俺は木々を打ち倒していく。
ヒットポイントが限りなく死の境に近づきつつも何本目かの木を倒したとき、変化が訪れる。
バラリスによって木に姿を変えられていた妖精が、俺の前に出現する。

「あんたって少しおかしいんじゃないの? よく見つけられたもんよね……」
その妖精は見慣れた少女――スプライトの姿で俺に語りかけてくる。
「もう木に体当たりするぐらいしか、ほかに考えつくこともなかったからね」
「呆れた。なんの手がかりもヒントもないのに」
魔王はフェアリーランドの王女に魔法をかけ、三人の妖精にして世界のどこかへ隠してしまったという。
「その妖精の一人が私ってわけ。あんたがあと残り二人を見つければ、元の王女に……人間に戻れるのよ」
「君は、人間に戻りたいのかい」
俺の言葉にびっくりしたのか、妖精は目を丸くする。
「べ、べつにそういうわけじゃなくて、ゲームの進行上そうしないとクリアできないってこと。いっとくけど、残りの妖精を見つけるのはぜったい無理よ」
俺は草原を超え、砂漠を超え、水路を越えて旅を続ける。
残り一人の妖精は、やはり木々の一つに隠されており、もう一人は魔術師に囚われているのだが、それを知るのはまだ遠く先、無限に近い長さの冒険譚の末、ほとんど永劫に近い旅路の果てでのことだ。

「ねえ。あんたって、なにがしたいの?」
今ではないいつか。ここではないどこか。
妖精の問いに俺は答える。考えるまでもなく。
「魔王バラリスを倒してフェアリーランドに平和を取り戻す」
「……それだけ?」
俺は少しだけ考える。
「王女を元の姿に戻す」
「それって、大事なこと?」
「おそらく大事なことだと思う。少なくとも、今の俺にとっては」
「ふ、ふーん……ま、せいぜいがんばんなさいよね。無理だと思うけど」
「がんばるよ。ゲームの進行上、仕方のないことだからね」
スプライトはまたたくように明滅したかと思うと、俺に罵声を浴びせてどこかへ消えてしまう。
「ばーか!」


■忍者ハットリくん
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突然だが俺はハットリくんだ。
ござるござるのハットリくんであり、うれしい味方であり忍者である。
手裏剣で雑魚忍者をやっつけ、ロボ忍者を倒して巻物を入手し、忍術を駆使しつつステージを進む。
俺はハットリくん。
カエルに触れると即死する。
ちくわを20本喰うと一定時間無敵になる。いかなる成分のちくわなのかは、もちろん言及できない。

ステージの最後にはボーナスステージが待っている。
鳥居の中からハットリくんの父親ジンゾウが出現し、おもむろにちくわを大量に放出する。ちくわの大フィーバーだ。
俺は夢中でちくわを拾い集める。狂ったようにちくわに飛びつく。
だが、ここでやはり罠が待っている。
ちくわの中に紛れて投じられた鉄アレイを脳天に喰らい、俺は一定時間気絶する。

「うわー、痛そう」
全身がしびれて動けずにいる俺の横に、スプライトが浮かんでいる。
「ああ」俺は美しい少女に教えてやる。
「これは実に痛いよ。現実だったら死んでるんじゃないかな」
「あんたねえ……」
スプライトは小さな指を俺につきつける。
「そもそも現実には鉄アレイが頭上から降ってくるなんてありえないから!」
「そうなのかい」
「そうよ」
不意になぜか、彼女はきまりが悪そうに視線をそらす。
少しだけ沈黙があり、俺は思ったことを口にする。
「現実にそういうことがあるのかどうかは知らないけれど、父親が鉄アレイを投げつけてくるゲームというのは珍しいね」
スプライトはぷっ、と笑う。「あははははっ……」そのまま腹を抱えて笑う。
「あはは……ぷっ、そうね。そうよね。いくらゲームでも、そんなのってないわよね……」
なにがそんなにおかしかったのか、彼女は目の端に涙すら浮かべている。
「あー、もう……やっぱりゲームなんてロクなもんじゃないわ」
「そうかもしれないね」
だんだんと身体のしびれが抜けてくる。もうすぐ操作が可能になるだろう。

「あんたなんかにぼやいてもしょうがないのかもしれないけど」
いつの間にか、まるで宝石のような涙の雫が少女の頬をつたっている。
「現実だってロクなもんじゃないわ」
「父親が鉄アレイを投げつけてくるゲームよりもひどいのかい」
泣き顔に笑顔という複雑な表情を残して、幻影のように彼女の姿は消える。
残された俺のまわりには、ちくわと鉄アレイが八月の雨のように降りそそいでいる。


■ポートピア連続殺人事件
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サラ金会社「ローンやまきん」の社長「山川耕造」が殺され、所轄署のボスであるところの俺は現場付近の花隈町にいる。
思わず虫眼鏡で調べたくなるほどに、太陽がまぶしい。
正面に立っている刑事が語りかけてくる。
「僕があなたの部下の間野康彦です。ヤスと呼んでください」
俺の部下のはずだが、なぜか初対面らしい。
「どういうふうに捜査をはじめますか?」
俺は犯人をつきとめるために現場へ向かう。山川の屋敷、その書斎へ。
「場所移動」
「なにか調べろ」
「ここだよ ここ!」
そうして俺はヤスに命令し、部屋の中に隠された鍵やらマッチやら地下迷宮やらを探し出し、密室殺人事件の捜査を進めていく。

第一の有力容疑者「平田」が京都の阿弥陀が峰で首を吊っているのが発見され、捜査は振り出しに戻る。
その後、やっとのことでたどり着いた有力容疑者「川村」も、何者かに殺されてしまう。
捜査は難航を極める。
だが俺はたどりつく。
山川耕造の秘書、沢木文江と、その生き別れの兄。捜査線上に浮かび上がった最後の容疑者へとたどりつく。
文江の兄の肩には、蝶のかたちの痣があるという。

「場所移動」
俺は捜査本部、無人の取調室へと移動する。
無人といっても、誰もいないわけではない。
正しくは、俺とヤスがいる。
俺はヤスに命じる。
「なにか取れ」
「なにを取りますか?」
ヤスは聞き返す。俺は告げる。
「服」
「僕に脱げというのですか? ボスはまさか……」

俺はヤスに――いや、ヤスの格好をした少女――スプライトに向かって、再び告げる。
「なにか取れ」
「……なにを、取るの?」
「服」
無言。
スプライトは似合わないだぶだぶのスーツとワイシャツに身を包み、なにかに耐えるような表情を浮かべて、ただじっとしている。あるいは、待っている。
長い沈黙が訪れる。思ってもみなかった巨大な静寂が、俺と彼女の間に横たわる。

先に口を開いたのは、彼女だった。
「ねえボス……私の服、取らないの?」
俺は黙っている。少女の真剣な視線を受け止めながら黙っている。
「……いいよ、私。あんたなら」
スーツを脱ぎ、ネクタイをほどき、ワイシャツのボタンを外していく。白い肌が見える。
スプライトは上目づかいに俺を見て、はにかむように笑う。
「えへへ、蝶のかたちじゃないけど、痣はあるんだ。ほら……」
「やめてくれ」
俺は少女を制止する。
凍りついたように動作を止める。世界がポーズされる。
スタートボタンが往々にしてポーズボタンであることの意味に初めて気づいたかのように、不思議そうな表情をした少女はゆっくりと首をかしげる。
「……どうして?」
俺は黙っている。ふたたび命令を出すこともできず、殺風景な取調室の中で立ちつくす。
「あと一回だよ? 私の服を取ればそれで事件は解決」
パトカーのサイレンの音が聞こえる。それは淋しげにこだまし、ドップラー効果をともなって遠ざかっていく。
「あんたの目的はゲームのクリアでしょ? どうして?」
どうしてだろう。
その疑問の答えが俺には、わからない。
知らないのか。
あるいは忘れてしまって思い出せないのか。
「……ばっか、みたい」
そうして、あの気まぐれな妖精は俺の前から姿を消し、二度と現れることはない。
事件は解決されず、永遠に迷宮入りとなる。









































■魔界塔士Sa・Ga
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世界の中心にあるあの塔は、楽園に通じているという。

俺は塔に挑む。
天空に届かんばかりにそびえ立ち、その内に数々の世界を内包する巨大な塔。
その最上階を目指して、俺は三人の仲間とともに冒険の旅に出る。
長い旅。
世界を乱している強大な敵――四天王とアシュラを撃破して、とうとう俺たちは塔の最上階へと登りつめる。
前人未到のその場所で、これからとある知人に会うことを俺は知っている。
穏やかな空間の中で、シルクハットの人物が待っている。

「やっと来ましたね。おめでとう! このゲームを勝ち抜いたのは君たちが初めてです」

「……もういいよ、神さま」
俺はその人物に声をかける。
最後の最後に、このゲームにおけるすべての……あらゆるルールと段取りを無視して彼女に声をかける。
彼女とはもちろんスプライトで、今まで数々のゲームにおいて俺と共に在り続けていたあの妖精、美しい少女だ。
「スプライト。それとも、プレイヤーさんと呼んだほうがいいのかな」
少女は観念したように深く息をつく。
「……わかってたの?」
「これだけ露骨な材料を出されれば」
あらゆるゲームに偏在する妖精。非現実の存在。
しかし彼女は現実を知っていた。現実に傷つき、悩み、苦しみ、涙を見せさえした。プログラムではない。あらかじめ規定され記述されたものではない。俺の中にはない、人だけが持つ心の営み。
そう、紛れもなく彼女は人間だった。

そしてゲームにおける人間の役割は、原則としてただひとつ。
ゲームを遊ぶ……プレイすること。
ゲームのプレイヤー。
それが彼女の正体だ。
今まですべてのゲームにおける、本当のプレイヤー。
「さすがにわかるよ。8bitの処理能力でもね」
スプライトが小さく息を飲む。

プレイヤーが彼女であるならば、当然ながら俺はプレイヤーではない。
「俺はゲーム機。ゲームそのものだ。そうだろう?」
「そうよ、でも」
少女は首を振り、俺を否定する。
「でも、なぜあんたがここにいるのよ! これはファミコンで……あんたで遊べるゲームじゃない。違う世界……違うハードのゲームなのに!」
そうだ。
俺はルールを侵している。
この世に生まれ消滅するまでに課せられている絶対的な制約を、たった一度だけ破ることにして俺は今、この場にいる。
「私、あんたなんか……あんたなんかっ……」
「俺は君を愛している」
少女はぽかんとしている。もう妖精ではない。神でもない。
ただの、人間の女の子。
「……ば、ばっかじゃないの! メモリなんて64Kバイトしかないくせに! いったことなんてすぐに忘れちゃうくせに!」
「忘れない。いや、変わらない」
俺はせいいっぱいの優しさの色を、己の顔に浮かべてみる。たった25色のうちで、できるだけ。
「俺は家族だから」
少女は泣きじゃくっている。助けを求めている。ほかならぬゲームに救いを求めている。
家族の名を冠されたゲーム機。俺は彼女を抱きしめる。2Kバイトの描画能力で、ゆっくりと。
「ばーか……ばーか、うう、あんたなんかね、あんたなんか」
小さな肩を震わせて涙を流す娘の言葉を、ただ俺はじっと待ち続ける。
「私、あんたが好き。あんたと遊ぶの……楽しかった」
「そうか」
「……ずっとそばにいてくれる?」
「いったろ。家族だって」
「もういっかい、愛してるっていってくれる?」
「モノラル音源でよければね」
少女がくすくすと笑う。花のような笑顔。
ああ、もしかしたら、と俺は思う。
ずっと思い出せなかった、あるいはわからなかった俺の目的。存在理由。
それはこの、ささやかな微笑みのために。


■ファミリー/コンピュータ
■ゲーム/ボーイ
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世界の静止が解け、時間は収束のときに向かって進みだす。
長いゲーム、その終わりのとき。
プレイヤーと俺たちの間で交わされる最後の儀式、あるいは約束。
エンディング。

終わりの始まりを、彼女に告げる。
「最後に、もう一度会えてよかった」
「えっ」
「もう俺は帰らなければいけない。俺たちの世界へ」
「じゃあ、わ、私も……」
俺は首を振り、彼女の背後にあるものを指し示す。
そこには大きな扉がある。別の世界へ通じる扉。
「君も帰らなきゃいけない。そこは楽園なんかじゃないんだろうけど、それでも」
そっと、俺たちは身体を離す。
わずか数ドット。
そのささやかな間隙は、ひどく遠く――俺たちを分かつ。

かつて妖精として俺の前に現れた少女は、おそるおそる扉に手をかけ、ふり返る。
「私、あんたに何度もひどいことした。怒ってないの?」
「あいにく、そんな機能は持ち合わせてないんだ」
はにかむような笑みを浮かべたあと、彼女はあどけなさの残る顔を凛々しく引き締め、一気に扉を開け放つ。

開かれた扉の先、あふれる大きな光に立ち向かうように彼女は歩き、やがて見えなくなる。
俺はコントローラーに残る少女のやわらかな手のぬくもり、その残滓を感じている。

彼女はいった。ゲームの中に大切なものなんてない。
たぶん、そのとおりなのだろう。
現実というやつに対して俺は、ひどく空虚であまりにも無力だ。
けれど彼女は「楽しかった」ともいった。それはきっと、大事なことだ。空っぽの俺を満たしてくれる……この上なく、大切なことだ。

向こう側の世界で生きる彼女のことを、せめてこのちっぽけなメモリがフラッシュされるまで、強く思い続けよう。
なあ、君はおぼえているだろうか。
数え切れない困難や理不尽を、君は君自身の意思と情熱で乗り越えてきた。小さな十字キーと、たった四つのボタンだけで。それはまぎれもない君の力だ。
それは物理的に残っているはずのない思い出だけれど、俺は知っている。おぼえている。だから、どうか信じてほしい。
君はどこへだって行ける。
望めば、きっと8方向以外のどこへでも。

ああ、そろそろ、さよならの時間だ。
しばしの別れを、俺は告げる。
また会えるいつの日か、そのときまで。
シー ユー アゲイン。

繰り返し、やがて遠ざかる女の子と俺の生活習慣

2016/01/05



 俺が一ノ瀬始(いちのせ はじめ)を好きになったきっかけは、実を言うとあまりよくおぼえていない。
 騒々しい教室の片隅で、牛乳瓶の底のような眼鏡を通して、いつも一ノ瀬はどこか遠くを見つめていた。
 こいつ、なにを考えているんだろう。
 夏。退屈な授業中。たしか現国だったと思う。
 初老の先生が朗読する古い物語の一節をBGMにして、セミロングの長さに揃えられた彼女の髪と、そこからのぞく形のいい耳と、細いうなじに浮かぶ汗のしずくと、夏服の白さをぼんやりと眺めていて浮かんだその疑問が、きっかけと言えばきっかけだったのかもしれない。

 その日、六時限目の古典の授業から机につっぷして居眠りをし、ホームルームの時間もぶっちぎりでガン眠りをつづけていた一ノ瀬が目覚めるのを待って、俺は彼女に告白した。
 俺はおまえが好きだ。
 放課後、俺と一ノ瀬のほかには誰もいない教室。うるさかったはずの蝉の声が急に遠くなった。
 異性への告白など生まれて初めてのことだったが、わりあいうまくできたのではなかろうか。
 それにしても、告白の言葉というのは魔法の呪文かなにかか。言った相手にではなく、口にした者自身がかかる魔法。好きだと実際に言葉に出したとたん、あ、俺はこの娘のことがこんなにも好きだったのかと驚く。
 遠くで輝いた花火の光を目にしたあと、少し遅れて届く音の大きさに驚くような感じ。彼女への思いが胸からあふれそうになる。街頭やコンビニで流れる陳腐なポップソングの歌詞よろしく、浮かれた感情が、愛しさが止まらない。
 だから、
「あの……ごめんなさい」
 一ノ瀬が眠たそうに目をこすりながらも、はっきりと困惑をにじませた声でそう答えたとき、俺はこの瞬間に死んでしまうのかと思った。
 俺はどんな顔をしていたんだろう。悲しそうな顔をしていたような気もするし、がんばって笑みを浮かべようとして失敗した気持ち悪い顔になっていたような気もする。いや、もしかしたらまったくの無表情だったかもしれない。途方に暮れたような顔だったかもしれない。
 そもそもが、告白して断られたときのことなどまったく考えていなかったのだ。というか、オーケーだった場合のことすら考えていなかった。早い話が、告白すること以外、なにひとつ考えていなかった。
 もしかしたら自分はとてつもない馬鹿なんじゃないだろうか、と真剣に悩みはじめた俺に、一ノ瀬はおそるおそる言った。
「あのね、わたし……好きな人がいるから。だから、ごめんなさい」
 二度目のごめんなさい。ていよく俺をあしらうための作り話である可能性など微塵も考えず、そうか、この娘には好きな男がいるのかーと心の中で深くうなずき、彼女のことを少し知った気分になって、奇妙な喜びさえ感じた。おそらく告白直後の異常なテンションで精神の働きがおかしくなっていたんだと思う。
 一ノ瀬のことをもっと知りたい一心で、俺は彼女の言う「好きな人」のことをたずねた。
「弐式野(にしきの)先輩……生徒会の」
 そう、照れくさげに彼女は言った。
 生徒会の弐式野と言えば、校内一有名な生徒と言っても過言ではない。
 成績優秀、眉目秀麗、容姿端麗、冷静沈着、質実剛健、文武両道……人の美徳を表す四文字熟語をありったけ、全身全力で体現しているような人だ。
弐式野次美(にしきの つぐみ)。我が校きっての秀才であり、男女問わず圧倒的な人気を誇る生徒会長。ちなみに、名前からもわかるとおり……女子である。
「わたし、その……男の人って興味ないの。ごめんなさい」
 三度目のごめんなさいと一緒に、俺は教室のスピーカーからノイズ混じりに流れる校内放送を耳にしていた。

 下校時間、十分前です。校内活動以外で校内に残っている生徒は、速やかに下校しましょう。速やかに下校しましょう……。

 俺が好きになった娘は、女の子が好きな女の子だった。



 生まれて初めて異性に告白し、三度の「ごめんなさい」をもって初めてフラれたその日から、俺はそれまで以上に一ノ瀬のことが気になって気になって仕方がない。
 すっぱりとあきらめて次の恋を探すべきだ。どう食い下がったところで彼女は男に興味がないんだぞ。無意味だ。不毛だ。徒労だぞ。
 頭ではそうわかっていても、ふと気がつけば一ノ瀬の姿を目で追っている。
 朝、教室に入るときに。まわりの連中に声をかけながら席に座るときに。静かな授業中に。騒がしい昼休みに。
 この世ではないどこか別の位相に焦点を合わせているような不思議なまなざしや、頬杖をついて居眠りをする彼女の横顔を、未練たらしく盗み見ている。

 ある日、一ノ瀬の様子がおかしいことに気づいた。
 眼鏡の奥の瞳が、赤く充血している。よく見ると、目の下にうっすらとくまができている。
 寝不足だろうか。夜更かしでもしたんだろうか。
 だが次の日も、その次の日も、一ノ瀬の瞳は赤く、まぶたは痛々しく腫れていた。状態は日に日にひどくなり、彼女は目に見えて憔悴していく。

 どうした。
 いったいどうしたんだ、一ノ瀬。
 よせ、もう彼女には関わるな。そうささやく心の声を無視する。
 俺はどうしても、一ノ瀬をほうっておけなかった。
 また放課後、誰もいない教室で、例によって昼休みからぶっ通しで眠りこけていた一ノ瀬がようやく起きて、俺の顔を見るなり「あ……おはよう」などと明らかに寝ぼけていたが、かまわず訊いた。
 おまえ、なにか悩みでもあるのか。
 だんだん頭がはっきりしてきたのか、ぼんやりしていた彼女の目に戸惑いが浮かぶ。そして、見ているだけで痛みを感じるほどの深い悲しみ。涙。
 一ノ瀬は泣き出した。眼鏡をずらして、次から次にあふれ出て頬を伝う涙を細い指先で一生懸命受け止める。ときおり低い嗚咽を漏らし、夏服に包まれた細い肩を震わせて、長いこと泣きつづけた。

「わたしね……弐式野先輩に嫌われちゃったんだ」
 ようやく落ち着いたのか、彼女はぽつりぽつりと語りはじめた。
「この前、思い切って先輩に告白したの。校舎の裏に丘があるでしょ。あそこにある大きな杉の木。あの木の下に、先輩を呼び出して」
 そこで一ノ瀬はまた泣きはじめたので、話のつづきを聞くために俺はしばらく待たなければならなかった。
 普段はどこか超然としているくせに実はけっこう泣き虫なんだな、などと思いながら、俺は彼女の途切れがちな話に耳を傾ける。
「先輩……『すまない』って……『悪いが、応えられない』って、私に言ったの。わたし、わかってたのに。たぶん駄目だってわかってたのに。断られたら、わたしの気持ちを聞いてくれてありがとうございましたって、笑ってお礼を言おう、って……」
 きちんと告白した後のことを考えていたらしい。俺とは雲泥の差である。
「でも、言えなかったの」
 一ノ瀬は喉から絞り出すような声で言った。
「わたし、なにも言えなかったの」
 もう一度、繰り返した。
「弐式野先輩から『すまない』って言われたとき、頭の中が真っ白になって……気がついたら逃げ出してたの。泣きながら走ってた。家に帰って、ベッドに潜っても先輩の言葉がずっと頭の中でぐるぐる ぐるぐるして。みっともなく逃げ出して……絶対に嫌われた、気持ち悪い子って思われて、嫌われちゃったよ」
 その気持ちはわかる。なんというか、ごく最近、俺も似たような経験をしているから、とてもよくわかる。でも俺は彼女ほど深刻に思いつめたり傷ついてはいないよな……と、少しだけ申し訳ないような、後ろめたいような気持ちになった。
「……それで、わたし、あなたにすごくひどいことをしたんだなって思って……。自分は何様なんだろうって、自分が自分で嫌になって……ごめんね……ごめんなさい」
 そしてまた彼女は盛大に泣く。
 顔をぐしゃぐしゃにして子供のように泣きじゃくる一ノ瀬を見ながら、俺は怒りを感じていた。
 なんだよ、これ。なんで俺の好きな娘がこんな顔してんだよ。そんな顔をさせてしまって、むしろ俺が謝りたいぐらいなのに……なんで逆に俺が謝られてるんだよ。
 何度か、手を伸ばして彼女の涙をぬぐってやろうかと思ったが、俺はけっきょくなにもしなかった。なにもできずに、うつむく彼女を黙って見ていた。

 彼女のためになにかができると思ったわけでもない。この状況を打破する光明が見えたわけでもない。ようするにこのとき、俺はなにもわかっていなかった。
 にもかかわらず、俺は、大きく息を吸い込んでから、よし、わかった! と力の限り叫んだ。
 びくっ、と彼女は全身を震わせた。驚きのため涙も止まったらしい。
 もう泣くな一ノ瀬、俺に任せろ。
 それだけ言って、俺は彼女に背を向けて教室を出ていく。



 おいおいやめろ。やめとけって。
 任せろってなんだよ。俺はなにもできないしお呼びじゃないのに、なにを勝手に任されようとしているんだよ。なあ、俺よ、いったいどこへ行こうとしているんだ。
 そうは思うが、俺の足は止まらない。
 やっと止まったと思ったときには、俺は生徒会室の前に立っている。
 おいおいおいおい、なにをする気なんだ俺。
 余計なおせっかいはやめておけ。今ならまだ引き返せるぞ俺よ。
 と思ったときには、すでに眼前のドアを思い切りノックしていた。

 思ったよりも狭い生徒会室の中では、一人の女生徒が長机の上にたくさんの書類や図面を広げ、なんらかの執務に取り組んでいた。ちらっと見たところ、もうすぐ始まる体育祭の企画書的なものらしい。
「ん、どうした。きみはたしか二年の……」
 女生徒は優雅な仕草で書類を置き、静かに椅子から立ち上がる。ただそれだけの動作で、まるで美麗な日本刀が鞘から抜き放たれたような凄みを感じる。背筋に軽い寒気が走ったほどだ。
 カリスマ生徒会長、弐式野次美は腰のあたりまである長い黒髪を優雅にかきあげながら、俺に向き直った。普通の人間がやると冗談にしかならないが、この人がやるとおそろしく絵になる仕草だった。 今の一連の動きをGIF動画にしたら、インターネット上で大流行するだろう。
「生徒会になにか用事か?」
 俺はゆっくりと首を振り、違います、あなたに話がありますと伝えた。少しだけ迷ったあと、一ノ瀬始のことで、と付け加える。
 すると、剣先のように細くてくっきりと形の整った眉が鋭くつり上げられる。
「一ノ瀬くんの?……まさか、彼女になにか頼まれでもしたのか?」
 弐式野先輩は有無を言わせぬ口調で俺を問いつめる。なにやら剣呑な雰囲気になってきた。
 そうじゃないんです、と俺は答える。なにから話したものやら。後先を考えないにもほどがあるが、とりあえず俺は素直にすべてを話すことにした。
 俺が、一ノ瀬を好きなこと。
 一ノ瀬が弐式野先輩に告白したあと、深く落ち込み、傷ついていること……。
 さすがは生徒会長と言うべきか、弐式野先輩は俺の話を注意深く聴いてくれた。
「ふむ、なるほどな」
 腕組みをしながら弐式野先輩は一つため息をつく。その姿もまた映画かなにかのワンシーンのように完璧だった。
「一ノ瀬くんには悪いことをしたと思っている……だが、ほかにどうすればよかったのだというのが、正直なところなんだ」
 それはそうだろう。いきなり後輩の――同性の子から本気で愛を告白されたのだから。
 おずおずと、俺は提案してみる。さすがに告白を受け入れてくれとは言えないが、せめて友人として、あるいは先輩として、一ノ瀬をなぐさめてもらうことはできないだろうか。
 すると弐式野先輩は目を丸くし、なにやら世にも珍しい生物を発見したような表情になった。
「きみは……おかしな男だな」
 そうなのだろうか。俺はそんなにおかしなことを言ったのだろうか。
「わざわざそんなことをしても、きみにはなにも得などないだろうに」
 いや、それはそうでもない……と思うのだが。
「しかし、すまないな。それはできない」
 弐式野先輩は俺に背を向け、生徒会室の窓から外を眺めた。遠くの空はうっすらと濃紺に染まり、日没の訪れが近いことがわかった。四角いグラウンドが見える。そこで汗を流す運動部員。硬球がバットに当たる甲高い音。
「私はもう二度と、一ノ瀬始に近づくことはないだろう」



 想像をはるかに超えて強い、それは拒絶の言葉だった。
 なぜですか、と俺は問う。
 弐式野先輩は長いまつげを伏せ、苦悩の色をにじませた。
「私には……私には、この世の誰よりも想い、慕う者がいる。不器用な私には、今はその者のことしか考えられないんだ……だからすまない。許してくれ……」
 精緻な工芸品のように整った顔を苦しげにゆがませる弐式野先輩を前に、俺は混乱していた。
 希代の名生徒会長・弐式野次美に、好きな人がいた。それはそれで衝撃の事実だ。まさにセンセーショナルなニュースである。
……だが、それがどうして、一ノ瀬を拒絶する理由になるのだろう。
 俺が首をかしげていると、閉じられていた生徒会室のドアが勢いよく開け放たれた。間髪入れずにハイトーンの愛らしい声が生徒会室に響きわたる。
「ハイ、ツグミ! 生徒会ワークス、まだ終わらナイノ?」
 唐突に出現したその女子生徒は、弐式野先輩とはまた違った意味で目立つ容姿をしていた。
 金髪。碧眼。だらしなく着崩した夏服の胸元から、はちきれんばかりに豊かなふくらみがのぞいている。
「さっ、サンディ?」
 弐式野先輩の変化は、すさまじいの一語に尽きた。クールビューティという言葉をそのまま絵に描いたような人が、今にも火が出そうなほどにその顔を赤らめたのだ。
 金髪巨乳娘は、長い足でずかずかと室内に踏み入り、俺の姿に目を留めた。人なつっこそうな顔にクエスチョンマークが浮かぶ。
「ワッツ? このコ、どこのコ? ツグミのボーイフレン? まさか彼氏のヒト?」
「ばっ、ば、ちがっ……そんなわけ、そんなわけないだろうっ!」
 両手をばたばたと振り、やたらコミカルな動きで必死に否定のアピールを行う弐式野先輩。
「か、彼はな、なんでもない、そう、本当になんでもないんだ! 私にとってはそう、路傍の石も同じ! いやそれにも劣る! スーパーマーケットで小さなヨーグルトを買うときに付いたり付かなかったりするプラスチック製の小さなスプーン! それぐらいにどうでもいい存在なんだ! サンディ、誤解しないでくれ!」
 そこまで頑強に否定されると、さすがに少しばかり落ち込んでくるのですが……おまけのスプーンて……。
 繊細でもろい俺の心情に配慮する様子もなく、アハハー、とサンディと呼ばれた金髪女生徒は屈託なく笑う。
「ジョーク、イッツジョークだヨー。じゃネ、ツグミ。ワタシちょっとミチクサ食べて帰りマスねー」
「こ、こらっ、寄り道は駄目だぞ! 商店街は意外と物騒なんだからな……おい、サンディ!」
 ぴこぴこっと可愛らしく手を振り、青い目をした巨乳娘は綺麗なブロンドをなびかせ風のように去っていった。
 そして、また生徒会室に静寂が戻ってきた。
 静かだった。俺たちはしばし、互いに無言で立ち尽くす。
 やがて、こほん、と弐式野先輩はわざとらしい咳払いをした。見ると、ばつが悪そうに目をそむけ、流麗なラインの頬を朱に染めている。
 あー、これは。
 まさか。もしかして……。
「……知っているかもしれんが、彼女はサンディ・サンドライト。この春から我が校に通っている留学生だ。私の家に逗留……ホームステイしている」
 俺は黙ってうなずく。生徒会長の家に海外留学生がホームステイしているというのは校内ではわりと有名な話で、俺も知っていた。
 ためらいつつも、俺は念のため確認する。ええと、もしかしてサンディが、先輩の……。
「ああ、そうだ! 私はサンディを愛している。なによりも愛おしく思っているッ!」
 だから一ノ瀬の求愛は受け入れられないし、無用な誤解を避けるために彼女の近くに寄るわけにもいかない、ということらしい。
 弐式野先輩は古風で一途な人で、女の子が好きな女の子だった。



 俺はがっくりと肩を落とす。
 弐式野先輩の気持ちはそれなりに理解できる。女の子同士の恋愛の是非についてはコメントを避けるしかないが、とにかく愛し合う二人の間に一ノ瀬を割り込ませるような真似はできない。
「愛し合う二人、か……そうだったら、よかったのだけれどね」
 自嘲気味に口もとをゆがめ、笑う。笑いながら、彼女が両の瞳から涙を静かにこぼすのを見て俺はぎょっとした。
「……サンディは……私のことなんかなんとも思ってないんだ。一緒に暮らしていても、私は大勢いる友人たちの一人にすぎない。その他大勢、まるで路傍の石ころさ。ふふっ、さっき私が言ったのは私自身のことだな。私こそ、おまけのスプーンのような、無意味で無価値な存在なんだよ……」
 似つかわしくない自虐の言葉を吐きながら、彼女ははらはらと涙を流す。
 また涙だ。今日、俺はいったい何度、女の子の涙を見るのだろう。
 ああ、ちくしょう……。

 わかった! と俺は力の限り叫ぶ。
 びっくりして泣きやむ弐式野先輩。
 それだけ確認して、俺は足早に生徒会室を後にする。



 俺は校外に出て、サンディの姿を探した。
 幸い彼女の姿は非常に目立つ。ほどなく、校舎の裏の丘の上に金髪女を見つけた。
 大きな杉の木陰で、気持ちよさそうに伸びて寝っ転がっている。一ノ瀬が弐式野先輩に告白した場所だ。
「どうしタノ?」
 近づいてくる俺を見て、勢いよく上半身を起こす。その弾みで豊かな胸がダイナミックに揺れるのをしっかりと目撃してしまう。
「ツグミの彼氏サン……はチガうだよネ。あっ、生徒会のヒト? ザッツライ?」
 ころころと表情が変わる娘だ。ただ見ているだけで楽しくなってしまう。そんなアメリカ育ちのサンディは、持ち前の気さくさと明るさで誰とでも仲良くなってしまう校内随一の人気者だった。
 ここまで全力で走ってきたため、俺の息は完全にあがっていた。荒い呼吸を落ち着けようとする俺を、大きな青い目が見つめている。その無邪気な視線が少し痛い。
 さて、どうするか。いつものようになにも考えずにここまで来てしまった俺は、いつものように途方に暮れた。
「ねえ、ダイジョブ? ホケンルーム、行きマスカ?」
 それには及ばない。俺は単刀直入に訊いた。弐式野次美は、あなたのことが好きだ。それは知ってるか。
 サンディはこっくりと首を縦に振る。
「知ってル。サンディも、ツグミのこと好きだヨ」
 そう言ってひまわりの花のような笑みを浮かべる。
 俺はサンディの隣に腰を下ろし、慎重に言葉を選びつつ質問の意図を補足する。すなわちLikeではなく、Loveの話であると。
 サンディは心持ち表情をかげらせ、小さく苦笑いを浮かべる。
「あー、イエス……それも、知ってルヨ。みんなにはナイショだけど」
 片目をつぶり、唇の前に人差し指を立てる。ぐっと顔を近づけられて、俺は不覚にも心を乱す。サンディの体臭なのだろうか。なにやら甘ったるい、いい匂いがする。
 否応なく視界に入ってくる胸の谷間から必死に目をそらしながら、俺は話の先をつづける。ここからが本題だ。
 弐式野先輩と同様に、サンディもまた「女の子が好きな女の子」なんだろう。俺がそう告げると、サンディは仰天した。
「ワイッ? ど、ドウシテ? どうして知ってルノ?」
 ぐいぐいと詰め寄ってくるので、俺はあわてて身体を離す。あー、日本には「二度あることは三度ある」という格言があってだな……と事情をかいつまんで説明する。

「なるほどデスネー。ワタシ、ツグミにソリィ、ゴメンナサイ、謝らなければいけないデス……」
 サンディはスイッチが切れたようにしょんぼりと小さくなってしまう。湖のような青い瞳が、薄く潤んでいた。
 ああ、またか。俺はなにをやっているんだろう。
 次々に女の子を泣かせて。好きな子の好きな子の、また好きな子を悲しませて。いったいなにがしたいんだろう。



 もうすぐ日が沈む。
 空から切り取られて血を流し傷ついたような色の太陽が、遠い世界の果てへと落ちていく。
 えい、おう、えい、おう……。
 グラウンドでは激しい練習が終えた運動部が、軽くランニングで流しながら声を出している。
 えい、おう、えい、おう……。

 俺は黙りこくる留学生に訊く。なあ。サンディにも好きな女の子がいて、きっとその子はサンディに振り向いてくれないんだろ、と。
 果たしてサンディは、柔らかに輝く金色の髪を揺らし、ゆっくりとうなずいた。
 まあ、そうだよな。当然、予想していたことだ。
「ワタシ、みんなと、ずっとフレンド……仲良くしたイ。ツグミとも……ベストフレンド、トモダチでいたイヨ」
 芝生の上で膝を抱えて、サンディがつぶやく。
「それじゃノー、ダメ、なの? ツグミと……フレンドじゃ、ダメ? ラブじゃなきゃ、ダメなの?……デモ、ワタシ……ワタシ」
 なあ、泣くなよ、と俺は彼女に声をかける。無駄と知りながら、それでも俺はそう言わずにはいられない。
 膝小僧の間に顔を埋めて、声を押し殺して泣いているサンディに、俺は最後の問いを投げかける。
 サンディ、おまえが好きな子は誰で、どこにいるんだ。
「スージー・フォアマン。ワタシのホーム、ステイツのオークランドのハイスクールで、センセイ、してルノ……」
 ほう、ステイツ。ステイツね……。
 想い人の名を口にして感情が高ぶったのか、彼女は鼻をすすり「ひっく、ひっく」と小さくしゃくりあげる。
 ああ、もう、たくさんだ。
 いい加減にしてくれ。女の子の涙はもう、たくさんなんだ。

 頭の中で声がする。もういいだろう。これ以上は無理さ。なあ俺。俺よ。
 もう日も暮れる。一日も終わる。さあ家に帰ろう。いろいろあったけど、忘れて眠ろう。ぐっすりと。

……そうは思ったのだが。いや、本当に。わかってはいるのだが。

 俺は、遠くで走っている運動部の連中にも負けない大きな声で、よし、わかった! と叫ぶ。
 驚きのまなざしを俺に向けるサンディの涙は、止まっていた。



 それから俺は、長い旅に出る。
 女の子に会うために。
 そして、その女の子が好きな女の子に会うために。さらに、その女の子が好きな女の子のもとへと俺は赴く。
 アメリカ西海岸の娘。その娘が好きなのは南米の娘。さらにその娘は、欧州の深い森の国の娘に恋をしていた。
 女の子は女の子に恋をする。
 それは真理だ。少なくとも俺をとりまく世界においては、くつがえしようのない圧倒的で唯一の真理。
 アイスランドの寡婦の熱烈な恋。豪州はクイーンズランドに住む老婆の瀟洒な恋。オセアニアの小さな島で暮らす小さな娘の小さな恋。
 彼女たちは皆、自らの恋の甘さと苦さを知っていた。そうして誰もが、例外なく、俺の前で必ず涙を見せた。
 俺が地上に描くその旅の軌跡は、あまたの女の子が織りなす数珠つなぎの円環だ。
 それを辿る。ただひたすらに彼女たちが流す涙の源泉を探すように。
 旅人というより、あるいは巡礼者に近いかもしれない。
 いや、あてどもなく終わりが見えないという意味では彷徨者とでも呼ぶほうがふさわしいか。



 そうして、長い時が流れた。
 気の遠くなるほど長い時だ。
 恋は風化し、愛は忘れられ、思い出は色褪せる。
 美しかった花もいつしか枯れ、塵になり、土へ還る。



 轟々と耳を聾せんばかりのうなり声をあげる砂嵐を避け、俺は巨大な方形石で組み合わされた石窟に入り込んだ。
 遠い昔の騎馬民族や行者が造ったという石の建造物や洞窟の残骸が、ここいらには無数にある。
 俺は冷たい石の壁に背を預け、座り込んだ。軽く息をつくと同時に激しく咳き込む。
 砂漠の乾燥気候がきっかけとなったのだろう。数年前から俺の身を蝕んでいる肺病の発作だった。
 いつもより少しだけ長く、少しだけ苦しい時間がつづいた。やがて、よじれた肺からなけなしの空気を絞り尽くしたあと、そっと口元をぬぐう。麻布の手袋にはうっすらと血が染みていた。
 またつづけて発作が襲ってきた。呼吸不全による軽度の窒息が引き起こす全身の痛みに耐えかね、俺は地べたに横たわる。そのまま血を吐くような咳と、喘鳴混じりの呼吸を交互に繰り返した。

 もう、やめておけよ。
 そんな声が聞こえる。ここ最近、この手の声が頻繁に聞こえるようになった。
 耳が遠くなり、実際の音がよく聞こえなくなってきた代わりなのだろうか。皮肉なものだ。

 もう、いいんですよ。
 また聞こえた。
 しかも今度はえらく鮮明で、ひどく綺麗な声だった。
 冷たい砂にまみれながら、石窟の入り口から外の世界を見た。
 砂嵐はだいぶおさまってきたらしい。難聴の耳にもうるさいほどだった風の音は、だいぶ静まってきている。
 狭い玄室の入り口、その四角く切り取られた空の中に、冴え冴えとした色の月が浮かんでいた。
 それは、まるで誰かの横顔のようにも見えた。
 横顔。遠い、誰かの横顔。
 もうほとんど思い出せないが、たしか俺は、その横顔を眺めるのが好きだった。
 俺は目尻をこすってやにを落とし、しばしぼんやりと天の佳人に見入った。



 チベットの北に横たわる崑崙山脈を超えてなお北の地。見渡す限りの曠然たる砂漠。現地の言葉で「死」だの「無限」だのと呼ばれる物騒な場所に、俺はいる。
 最後に立ち寄った村で補給した水と食糧は、すでに心もとない量にまで目減りしている。この砂嵐をやり過ごしたら、一度戻るべきかもしれない。戻って……。

「戻る必要はありませんよ」

 耳元にささやきかける声。俺は顔を覆う汚れたフードを上げ、薄く目を開けた。
 濁った視界に、ぼんやりと女の顔が見えた。
 女。
 老婆のようにも見えるし、少女のようにも見える不思議な女だった。
 あんたは誰だ、と俺は問う。
 ひび割れ、低くしわがれた俺の声は、どうにか相手に届いたらしい。
「きっと、あなたの探している者ですよ」
 そんな返答が聞こえた。
 あんたが、そうなのか。
「はい。音無虚(おとなし うつろ)と申します」
 彼女はそう名乗った。たしかに俺が探していた人物の名だ。名前と容姿、話す言語からして、生粋の日本人のようだが……それにしても、なんだってこんな辺鄙なところにいるのか。
 女はくすくすと笑った。
「あなただって、そうでしょう」
 違いない。ひどく久しぶりに笑いの衝動がこみ上げてくる。
 聞かせてくれ、と俺は用件を切り出す。
 音無さんとやら。
 あんたが好きな人のことを聞かせてくれ。
 それは誰で、どこにいるんだ。
「わたしが好きな人はね」
 そこで女は小さく微笑んだように見えた。優しく俺をいたわるような。慈愛に満ちた抱擁のような笑顔。
「あなたです」
……なんだって。
 今、なんと言った。
 俺は自分の耳を疑い、訊き返した。
 彼女は告げる。ゆっくりと、一語一語、小さな子供に言い含めるように。
「わたしはあなたのことが好きなんです」
 馬鹿な。嘘を言うな。
「ひどい。嘘じゃないですよ」
 声に少しだけ拗ねたような響きが混じる。
「あなたのこと、ずっと見てたから。ずっとずっと。いつも、がんばっているところ……見てたから」
 不意に俺は理解した。わかってしまった。
 生まれ育った地から遠く離れ、世界から見放されたようなこの不毛の地で。
 俺は今、生まれて初めて、異性から愛の告白を受けているのだと。



「わたしを……受け入れてくれますか?」
 にこにこと、満面の笑顔で。音無虚は言葉を重ねる。
「ここがあなたの終着点。わたしがあなたの終端駅。あなたがこれまで会ってきた、たくさんの女の子たちの想い、痛み、悲しみ、涙、そのすべての源流。だからね、わたしを好きになってくれれば、彼女たち全員の涙を止められるんですよ」
 暗く冷たかったはずの石窟の中は、いつの間にか、おだやかな光に満ちていた。
 ほのかに暖かく、優しいもの。ずっと、俺が触れることができなかったもの。
 光を背負った音無虚の向こう側に、またたくような幻影が見えた。泡影のように一瞬きらめいては消える。俺が出会ったすべての娘たち。女の子を好きになった女の子たち。まるで星のように、数えきれないほどの。
「ね、悲しみの螺旋と涙の連鎖はわたしで終わり。ここで断ち切って、終わらせましょう」
 思春期の少女のように楽しそうな調子で、音無虚は言う。
 俺は――。
「それに、わたし……あなたを独占できなくてもいいですよ。お二号さんみたいな扱いでもいいんです……だから、だから」
 俺は問いかける。
 なあ、音無さん。
「はい、なんですか?」
 どうしてきみは、そんな――今にも泣きそうな顔で俺にそんなことを言うんだ。
「どうしてって……」
 彼女は笑みを絶やさない。涙を見せず、絶対に泣き出さない。
 そうか、彼女は……知っているのだ。俺が女の子の涙を見て、どれだけ傷つくかを知ってくれているのだ。好きな人の涙を止めてやることもできない、そんな俺の絶望と無力感をわかってくれている。
 なぜならそれは、そっくりそのまま彼女自身の絶望と無力感なのだから。
「どうしてって……そんなの……決まってるじゃないですかあ……あなたが、今度もわたしを選んでくれないって……知ってるからに、決まってるじゃないですか……」
 幾度も言葉をつっかえながら、それでも音無虚は笑顔のままだった。
 俺はその魅力あふれる素敵な表情を浮かべる娘の瞳を見返しながら、ありったけの誠実さを込めて、ありがとうと言った。
 そしてただ一言、すまん、と告げた。
「……謝らないでくださいよ、もう」
 目尻に浮かびかけた涙を拭き取り、まばゆい光に包まれながら音無虚は笑う。
 光の中に浮かぶ、無数の女の子。俺がこれまで会った女の子たち。これから会うかもしれない女の子たち。会うことのない女の子たち。ここにありて、またここにあらず、全にして個、個にして全たる女の子たち。
 その視線と想いは互いに触れ合うことなく、交わることなく、ただつかず離れず、ゆるやかにうねり、まわりながら巡り、やがて束ねられ、象限の彼方へかかる極光のように荘厳な螺旋の天幕をかたちづくっている。
「ほんと、おかしな人ですよね。信じられないぐらい馬鹿っていうか」
 声がきこえる。音無虚の声。
 そうだな。俺は愚かだと思う。無力だと思う。なにもできなかった。なにも変わらなかった。ただ、あがいているだけだ。今までも、そしてたぶん、これからも。
「そうですね。あなたの馬鹿さ加減は、きっと死んだってなおらないと思います」
 そうなのかな。
 初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしい。
 この世界でただ一人、過去と未来でただ一人、俺を好きだと言ってくれた/言ってくれる娘の声。
「そろそろ、さよならです。この<吽>の門で断ち切られなかった因果はうつろい、流転して――もうすぐ<阿>の扉につながります」
 知覚しきれないほどのまばゆい光輝を全身に受け止めながら、だんだんと俺の意識はぼやけ、薄くなり、拡散していく。
 ひどく身体が軽い。身も心も驚くほどに軽かった。
 まるで翼が生えたように。どこへでも行けるような気になる。
 けれど俺は、これからどこへ行けばいいのだろう。
「ほら、忘れちゃだめですよ。また逢いに行くんでしょう。はじまりの子に」
 ああ、そうか。
 俺は思い出す。
 いちのせ……はじめ。
 一ノ瀬、始。
 大きな眼鏡のレンズ越しに、いつも俺の知らない世界を見ていたあの子。
 その物憂げな横顔を見て、居眠りする寝顔を見て、こいつはなにを考えているのかなって。彼女の顔をちらちらと盗み見ながら、そうやってあれこれ想像するのが、俺は好きだった。
 そうして、いつの間にやら彼女のことが好きになって。
 俺はとうとう、告白するのだ。
 後先を考えずに。

 いつか、あの遠い日、放課後の教室で。
 一ノ瀬は机に頬をくっつけて、すうすうと安らかな寝息を立てている。
 やがてこの子が夢からさめたら、俺は生まれて初めてその言葉を口にしようと思った。

狩りせよ乙女

2015/12/16



「あのね文江ちゃん、お願いがあるの」
 その話を切り出したのり子の表情は、たいていほわほわーっとしている彼女にしては珍しく、妙に引き締まっていたのをおぼえている。
「あたしね、ノモンハンをおぼえたいの!」
 なにをいっているのかわからねーと思うだろうが、もちろん私にもわけがわからなかった。
 自転車通学の女子生徒が、徒歩の私たちを軽快に追い抜いていく。
 小さなベルの音をのせた放課後の風が、私たちのスカートを小さく揺らす。
 世界中のあらゆるものを吸い込んだような色をした太陽が、空の向こうへ落ちていく。
 そんな下校時間の夕焼けがのり子の眼鏡に反射している。黙っていれば知的といえなくもない顔立ちなのだが、この娘は口を開くたびに私を不思議な世界へいざなうのだった。
「ええと……ノモンハン事件のこと?」
「うん、なんかねえ最近、男子の間ではやってるんだって」
 一九三五年に発生した満州・モンゴル間の国境紛争事件が、なぜ、今。
 ウチの男子どもってそんなに歴史好きだったかしら……。
「お昼休みに集まってこっそりやってるじゃない。あれ、通信対戦?っていうんだっけ。『ノモンハンで狩ろうぜー』って」
「あー、モンハンね。PSPの」
「そうそう、それそれ」
 私はようやく合点がいく。
 モンスターハンター、略してモンハン。プレイヤーはハンターとなって様々な依頼を受け、モンスターを倒したりアイテムを採集したりするゲームだ。多人数での協力プレイが楽しいらしい。
 ちなみにPSPってのは携帯ゲーム機のこと。たしか弟の奴が持ってたな……。
「あれ、あたしにもできないかなーって」
「いや……あんたには無理じゃないかなあ」
 私の中で、のり子の不器用さはちょっとしたレジェンドだ。ゲームに関していえば、テトリスでほとんど列を消せずにブロックを積み上げ、スーパーマリオで最初のクリボーに当たって死ぬようなレベル。十字キーの斜め方向をうまく入力できず、二個以上のボタンを使い分けることのできない……そういう残念な娘なのだ。
「えー、だめかなあ」
 眼鏡の奥、のり子の瞳が潤んでいる。意識的にやっているのではないだろうが、私はこの眼に弱い。
「わかったわかった。今度ゲーム機持ってきてあげるから、いっしょに練習しよ」
「ほんと?」
 ありがとう文江ちゃん、と笑顔になるのり子。私もつられて笑ってしまう。
 ちょうどいつもの交差点で、私たちは別れる。
 それにしても、なぜ突然モンハン?
 のり子に手を振りながら、そのことを聞きそびれたことに私は気づく。



「そういうわけだから、おとなしくあんたのPSPとモンハン一式、差し出しなさい」
 私が(心の中で)頭を下げてお願いすると、わが愛する弟は麗しい姉弟愛をみなぎらせながらこういった。
「ふざけんな」
 姉の清らかな願いをにべもなく一蹴する弟に対して、温厚な私はできるだけ穏便にことを済まそうと誠実な懇願をつづける。
「このクソガキ、人が下手に出てりゃいい気になりおって。オラいいから黙って出すもん出しなさいよ」
「生まれてこのかた、俺はいっぺんたりとも姉ちゃんが下手に出るのを見たおぼえがないんだが……そもそも『そういうわけ』ってどんなわけだよ? なにも説明されてねえぞ」
 私としたことが、話の進行を焦るあまりすべての説明を端折っていたらしい。あらためて弟に事情を説明する。まあ、一言で済むんだけど。
「実は、のり子の頼みなのよ」
「なにッ……川村先輩の!」
 愚弟の顔色が変わる。
 この青春ボーイは、ときおり家に遊びにくる姉の友人に対して淡い憧れを抱いているのだ。その甘酸っぱい感情に訴えかければ、たいていのことは引き受けざるを得ないのである。
「……わかった。ほら、持ってけ」
 若きゲーオタであるところの弟にとって、愛用のゲーム機を手放すということは己の半身をもぎ取られるに等しいことなのだろう。固く拳を握りしめ、ついぞ見たことのないような苦渋に満ちた表情を浮かべている。
 ふふ……いつの間にか男の顔になったもんね。私はPSP本体とソフト一式を受け取りながら、優しく弟に声をかける。
「私とのり子の二人でやるんだから、もう一組用意してよね」
「くっ……友達に頼んで借りてくる」
 よろしくね、とうなだれる弟の背を軽く叩く。弟はふと顔をあげて、
「……でも川村先輩、なんで急にモンハンなんて?」
「そうねえ……実はああ見えて、意外に狩猟意欲が旺盛だったのかもね」
「狩猟、意欲……? 川村先輩が……」
 わが愛する弟は複雑な心境なのだろう、いつにもまして変な顔をしている。捨ておいて、私はさっさとお風呂に入ることにする。



 図書室の隅っこにある第二準備室は、私とのり子だけの秘密の空間だ。
 なにげに図書副委員長などという役職に就いているのり子は、普段は倉庫代わりに使われているこの部屋の鍵を預けられている。
 モンハンやるなら近所のマックとかでもよかろうとは思うが、のり子は騒がしい場所や人ごみが苦手なのだ。そういうわけで勉強をするふりをして図書室にやってくる私たち。
 いちおう誰にも見とがめられないように注意して、第二準備室の扉を開け、素早く滑りこむように入る。
 以前に何度か入ったことはあるけど、これから校則に反すること(単なるゲームだけど)をするためだろうか、なにかが違う。うむ、えらくどきどきする。
 そう思っていたら、のり子も同じだったらしく、
「なんだか、どきどきするね文江ちゃん」
 などと声をひそめてぎこちなく笑うので、私は思わず吹き出してしまう。
 古い本の匂いがする準備室に、二人のくすくす笑いが小さく響く。



 私たちは協力して、本の詰まったダンボール箱をソファーのように積み上げる。そこに並んで腰を下ろし、PSPを触ったことのないのり子に電源の入れ方からレクチャーする。
「えっ、あれっ、電源入らないよ。あ、あたし壊しちゃった?」
「のり子、長押し長押し」
 万事こんな調子だ。
「ぜんぜん壊しちゃってもいいよ。それ、どーせ弟のだし」
「あ、そっか。弟くんがわざわざ貸してくれたんだよね。今度きちんとお礼しにいくね」
 弟が聞いたら泣いて喜びそうな言葉だが……それにしてもいまだに「弟くん」どまりの彼に、私は心の中で合掌する。弟よ、君の行く道は果てしなく遠い。
 などと考えている間になんとかPSPの電源が入り、ゲームが始まる。
「わー、これがマンハンなんだねー」
「いや『モン』ハンだから。マンハンは日本でおおっぴらに発売できないからね」
「すごーい、絵が立体的だー。ポリゴンだねー」
「あんた、いつの時代の人なのよ……」

 ハンターのキャラメイク、使用する武器選び。のり子は楽しそうだ。
 ふと、私は思い出す。
「ところでさあ、のり子。どうして急にモンハンやりたいなんていいだしたの?」
 ぴたりと動きを止め、うつむくのり子。
「え、ええっと、ね」
「うん」
「ええと、ね」
「うん」
 のり子の顔が真っ赤だ。おさげ髪の間に見える首すじまで見事に赤くなっている。
 やがて消え入りそうな声で、のり子はその想いを口にする。
「高橋くんと、遊びたい、から……」
「えっ、タカハシ?」
 のり子は小さくうなずく。
 高橋。高橋って、あの高橋かー。
 のり子の斜め前の席に座ってて、クラスではあんまり目立たない男子だけど、まあ良くいえば控えめで悪い奴ではないと思う。しかし……ちょっと、いや、かなりびっくりした。
 のり子が、高橋のことをねえ……意外なような……いや、けっこうお似合いのような……でも、うーん。
 とりあえず私は気まずい沈黙を紛らわすために話の穂を継ぐ。
「そうか高橋かあ……ちなみになんで高橋? どこがいいの?」
 などと愚問を発してしまうが、のり子は恥じらいながら「……楽しそうなところ」と、ちょっぴり嬉しそうに答える。
 あらためて思うんだけど、かわいいなあこの娘は!



 帰宅すると弟が待っていた。
「ほら姉ちゃん、借りてきてやったぞPSP一式。かなり苦労したんだぜ、いっとくけど」
「えっ、ああ……」
 放課後の「高橋くん好き好き事件」の衝撃ですっかり忘れていた。「ありがとね」とりあえず受け取っておく。
「な、なあ。川村先輩、俺のこと……なんかいってたか?」
 私は思わず弟の顔をまじまじと見つめてしまう。
「……あんたって、とんだピエロよね……」
 さすがに、ちょっと笑いを通り越して泣けてくる。
「は? ピエロってなんだよ」
「いやいや、こっちの話……そうそう、のり子すごく喜んでたわよ。今度ぜひお礼をしたいって」
「ま、マジで? よっしゃー!」
 予期していたとおり無邪気に小躍りする悲しき道化。もう見ていられない。
「だいじょうぶなのかしらこいつ……こうやってゆくゆくはミツグくんってやつになっちゃうのかしら……」
 私の独白を聞きとがめた弟が口をとがらせる。
「誰がミツグくんだよ。むしろそんな死語をさらっと使う姉ちゃんの感性が心配だよ俺は。あと、PSPは単に貸しただけだからな。きっちり返してもらうから」
「はいはい。わかってるわよ」
「あ、ああーっ!」
 いきなりなんの前触れもなく絶叫する愚弟。
 まさか、気付いてしまったというのだろうか。自らが置かれた境遇の厳しさ、そして哀しさに。
 大いなる天啓を受けたかのごとく目を見開き微動だにしない弟に、私はおそるおそる声をかける。
「な、なに、どうしたのよ」
「……今さら気づいたけど、俺のPSPを川村先輩に貸した……ってことは俺が使っていたPSPを川村先輩が……川村先輩の指が……! うおおッ、もう俺は一生あのPSPを洗わねえぜ! ひゃっほう!」
 おまえはゲーム機を洗う習慣があるのか。
「いや、のり子のことだから、きちんと綺麗に掃除して返すと思うけど」
「なんてことだ……ちくしょう!」
 数秒前まで「ひゃっほう」などという典型的な浮かれ台詞を吐いていたとは思えぬほどに落ち込む弟。床にひれ伏し、地に拳を打ち付けている。
 いつまでも見苦しくのたくる彼をその場に残して、私はさっさとお風呂へ向かう。



「のり子、そいつ攻撃して攻撃」
「えっ、だってこの子、攻撃してこないよ? きっといいモンスターだよ」
 あの日以来、放課後のモンハン特訓はつづいている。
「いいモンスターは死んだモンスターだけよ! 早く攻撃!」
「わ、わかった。えい、えいっ」
 ぎこちなく握ったPSPのボタンをぺしぺしと押すのり子を横目に見ながら、私は自然に頬がゆるむのを感じる。
「やった、やっつけたよ文江ちゃん!」
「はいはい、とっとと素材剥ぎ取って」
「わかった!」
 沈黙。
「……どうした、のり子よ」
「……剥ぎ取りってどのボタンだっけ」
 とまあ、そんな感じだ。だいぶ進歩したような気もするが、男子と一緒に飛竜を狩るようなプレイにはほど遠い。老婆心ながら私がそう指摘すると、のり子は「むー」と口をとがらせた。
「うーん、でも雪山草を集めるのはかなり自信ついたよ。なんかこう、まさにハンター!って感じだよね」
「いや、そのハンター観はどうかと思うけど……少なくとも高橋と肩を並べて狩りをするのはまだまだ無理ね」
「じゃあせめて、高橋くんの代わりにたくさん雪山草を集めておくとか」
「それは……なんかちょっと違うような……」
 むむー、と考え込むのり子。眉毛と口元が「へ」の字になっている。
 なにをするにも一生懸命なのり子。
 思わず愛おしくなり、私はその小さい肩を優しく叩いてやる。
「ほら、まずは一番簡単な狩りのクエストからやってみよ。私も手伝うからさ」



 いつの日か。
 そう、いつの日か、のり子は持ち前のがんばりで一流のハンターになってしまうのかもしれない。そして彼女の願いどおり、高橋と一緒に楽しくモンハンに興じる日が訪れるのかもしれない。
 というか、高橋のことが好きならモンハンとか抜きにして普通に告白したほうが簡単なような気がする。のり子は――生来のどんくささゆえに自分ではさっぱり気がついていないが――かなり男子に人気がある。
「あっ、やった初めて『こんがり肉』できたよー。これ楽しいねえ」
 でもまあいいか、と私は思う。
 小さな窓からは、いつもの夕焼けが淡く差し込んでいる。世界中のなにもかもを引き受けながら静かに溶けていく太陽。その光は四角いガラスを透過して、ひどく優しげな色彩だけが私たちの制服に届いている。
 そんないつもの夕暮れどきに、二人だけの図書準備室で、膝を並べて同じゲームで遊ぶ。
 遠くで下校を促すチャイムの音が聞こえるけれど。

「うん、楽しいね、のり子」

 この時間が、もう少しだけつづいてもいい。


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