神よ、黒川を護り給え

2016/06/15

 初めて会ったころの黒川さんは、ひたすら火炎瓶を製造していた。
 当時は火炎瓶をつくる技能に長けた人を重宝がる奇特な人々がなぜか存在して、彼はそんなよくわからないニーズに真っ向から応えることで生計を立てていた。
 黒川さんは火炎瓶をつくるのが早かった。そして彼の火炎瓶はよく燃えた。何か特殊なものを混ぜているのか、青みがかった炎を発しながら、消化剤を散布しない限り一昼夜に渡って燃え続けた。
 俺は火炎瓶を運ぶアルバイトをしていた。仕事は楽ではなかったが、黒川さんが住む街外れの廃工場に行くのは俺にとって数少ない楽しみの一つだった。
「ちわっす。瓶、受け取りにきたんすけど」
「ああ、ご苦労さん。そこに置いてある」
 作業場である地下室へと続く階段を下りたすぐ脇に、ビールケースがどっさり積まれていた。もちろん、中には火炎瓶が満載だ。
「また、えらく大量にこさえましたね」
「ほかにやることもないからな」
「評判らしいですよ。黒川さんの瓶」
 黒川さんは「そうかい」とうなずいて眼鏡の位置を神経質な手つきで直した。
「これから新しい配合の試しをやるんだが、付き合うか」
「え、いいんすか」
「いいさ」
 夕暮れを過ぎた薄闇の中、俺は瓶の入ったケースを廃工場裏の空き地まで運ぶのを手伝った。そこで黒川さんが黙々と火炎瓶を放り投げて、木切れを燃やすのを眺めた。
 乾いた音を立てて割れる瓶。
 導火布から混合液に着火した瞬間に溢れ出る閃光。
 焼きついた視界の中で、あの、不思議な青い炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。
「どうしてあんな色になるんですかね」
 絶えずうつろう炎を見つめながら、俺はたずねた。
「さてね」
 黒川さんは軽くおどけ、肩をすくめた。
「たぶん、理由なんかないんだろうね」
 なぜかはわからないが、軽い口調でそうつぶやいた黒川さんはどこか寂しげに見えた。

 やがて日が落ち、俺がぼちぼち残りの仕事を果たすために廃工場を立ち去ろうとする間際、黒川さんが不意に声をかけてきた。
「君にだけは言っておくよ。もしかしたら、もう、二度と会うことがないかもしれないから」
 突然すぎる別れの言葉だった。「私はソヴィエトに渡る」黒川さんは言った。
「ソヴィエトって……あそこは今、かなりやばいんじゃ」
「そうだね。だからお別れを言っておくよ」



 その次に会ったとき、黒川さんは荒川の土手で石を売っていた。
 長い長い時が過ぎていた。

「……石売るよ、石売るよ」
 
 川べりにくすんだ色のブルーシートを敷き、大小とりどりの石を並べている黒川さんは、ぶつぶつと呻くような口調で道行く人に石を売ろうとしていた。
 俺は自分の目が信じられなかったが、忘れようもない。たしかにそれは黒川さんだった。あまりに変わり果ててはいたが。
「黒川さん」
「……あ」
 俺が声をかけると、黒川さんは呆けたような声を漏らした。
 声をかけてはみたものの、続く言葉がなかった。黒川さんは焦点の合わない視線をぼんやりと俺に向けていた。
「行けたんですか、ソヴィエト」
 やっとのことで俺は言葉を継いだ。長い沈黙があった。
「……たよ」
「え」
「行けたよ」
 黒川さんは静かに言った。俺は、そうですか、と答えた。
「あの国にはすべてがあった」黒川さんは続けた。夢見るような口調で。
「身を切る清洌な空気があり、素朴な人々の温もりがあった。崇高な思想があり、惨憺たる闘争があり、無骨だが美しい武器があり……死があった」
「死」
 と、俺はその一語を繰り返した。
「死は……何の修飾のしようもないぐらいただの……単なる死だったよ」
 それをひどく平坦な声で言ったあと、黒川さんは空を見上げた。俺は黙って耳を傾けた。
「あの国にはすべてがあったんだ。そう、あそこには妖精すらいた……ふふ、逃げられてしまったけどね」
「残念でしたね」
「ああ、残念さ。でもね、もっと残念なことがあった。私は……うん、残念だ……残念だよ」
 それきり黒川さんは黙り込んでしまった。
 どうしたものかと思っていると、突然その少女の声が聞こえた。

「クロカワは、クロカワ自身のБог(ボオフ)をみつけられなかったの」

 気が付けば、黒川さんのすぐ後ろに少女が立っていた。白い肌。亜麻色の布切れのような柔らかい服をまとった、どこかふわふわとした印象の娘。うつむき、虚ろな眼をした黒川さんとは対照的に、彼女は俺をまっすぐに見つめていた。
「きみは」
 何者なのか。
 俺はそう問うたつもりだった。だが俺の声が届いていないのか、少女は長い髪をそよ風になびかせて、たたずんでいるだけだった。
 その超然としたふるまいがあまりにこの場に似つかわしくなく、もしかして白昼夢でも見ているのではないかと俺は思った。
 やがて少女は短く答えた。ささやきにも似た響き。
「ずっと、ずっと、あたしはクロカワのそばにいた」
 少女は、そっと黒川さんの背後から細い両腕をからめ、自ら育てた我が子を慈しむように抱きしめ、頬ずりした。黒川さんは身じろぎ一つせず、茫洋としたまなざしを川面に向けていた。
「でも、クロカワにはあたしがみえないみたい」
 少し困ったような表情を浮かべた。
 気が付けば黒川さんは「石、売るよ」とつぶやき続けている。そんなものを売らないでくれ、と俺は思った。

「石にだってボオフはやどっているの」
 呼ぶべき名前のないその少女は、黒川さんのすぐ横にしゃがみこみ、並べられた石の一つを細い指でそっとつついた。
 黒川さんと、名無しの少女。
 俺はこの光景に少し目眩をおぼえながらも、少女に訊いた。
「なあ、”ボオフ”ってなんだ」
 石をつついて遊んでいた少女は、俺を見上げて小さく微笑んだ。
 その瞳は青かった。
 いつか見た、夕闇に映える青色。俺は目を離せなくなる。
 可憐な花びらをつらねたような唇がゆっくりと動いた。
「かみさま」
 俺は息を呑んだ。

「クロカワに、かみさまは、いなかったの」




 それから俺は、今度こそ二度と黒川さんに会うことはなかった。



 さらに長い、時が流れた。

 それなりに俺は生き、相応に年老いた。
 重篤と呼べなくもない病を得ており、残された時間はそう長くはないと理解している。
 最近は視力の低下がひどく、体調によっては、不意に視界一面が真っ白になることもある。どこまでも広がる白い闇だ。

 そんな折、黒川さんから一通の絵葉書が届いた。
 どうやって俺の住む場所を知ったのか。そもそも彼がまだ生きていたこと自体が驚きだった。
 絵葉書には黒川さんが写っていた。
 満面笑顔の黒川さん。その横にあの蒼い瞳を持つ名無しの娘が可愛らしい笑みを浮かべて寄り添っている。さらに、似たような雰囲気を持つ美しい少女たちが何人も黒川さんを取り巻いている。

 俺はその葉書の写真が作り物ではないかと思った。まるで現実味がない。この世の光景だとは信じ難い――そう思い、俺は目を凝らして葉書を見ようとしたが、ぼやけ白濁した俺の視界はもう、何かの真贋を判ずることなどできはしなかった。
 だがそれでも、黒川さんの笑顔だけは本物だった。
 白いもやの中にかろうじて読める、絵葉書の隅に小さく書かれた「私は見つけた」という殴り書き。
 ああそうか、と俺は思った。
 黒川さんは見つけられたのか、と。

 それきり俺の世界はまばゆく拡散していき、やがて光と闇の区別を失った。


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