世界の終わりに敦盛を舞う

2013/09/04

 一時間あまりの通勤時間の間に、運が良ければ三人か四人ぐらいは敦盛を舞っているサラリーマンを見かけることができる。
 とは言っても、扇をかざして小鼓の伴奏に合わせ足拍子を踏み鳴らしているような人は、さすがにあまりいない。そのような本格派を見かけるのは、俺にしても十数年の社会人生活の中で二、三度ぐらいしかない。
 たいていの人は、ごくささやかに敦盛を舞っている。
 それは電車の吊り革につかまる手の微細な動きであったり、イヤホンで流行の音楽を聴くふりをしながらゆるやかに揺らす身体のリズムであったり、独り言に見せかけてそっと朗じられる詞章の一節であったりする。
 そうやって誰しもが思い思いのやり方で敦盛を舞っている。
 よくよく観察してみれば、毎日けっこうな数の男たちが個人的な範疇で敦盛を舞っていることに気づくはずだ。

 通勤電車の中で舞う以外にも、起床とともに舞う者や、就寝前にひとさし舞う者もいる。
 家族が寝静まった深夜に、誰もいない居間で静かに舞う者もいる。
 夢幻のごとき世の中で戦い、傷つき、疲れた男たちは、そうやって人知れず化天のうちをくらぶるのだろう。
 誰にも理解されないなにかをはかなみながら、自分にすらわからないなにかを惜しみ慈しむ。
 人間、五十年。
 おそらくそれは祈りのかたちだ。
 ゆるやかな終わりを慎んで迎える、男たちの奉納の舞。

 だから、もしも世界の終わりがあるとすれば、それはきっとこのような光景だろうと俺は夢想する。
 朝、いつものように家を出る。
 駅に向かう数百メートルの道中には、何十人ものサラリーマンが、背広姿のまま大きな所作で舞っている。
 だが、どれ一つとして同じ舞い方や足拍子はない。
 誰もが個人的な終焉の儀式としての敦盛を、思い思いのやり方で舞っている。
 道路に車は一切走っておらず、普段の朝の喧騒からは想像もつかないほどに静かだ。
 けれど、どこか遠くから囃しの声と鼓の音が聞こえてくる。

 いつもの通勤電車は止まっている。
 駅の職員も当然のことながら舞っているし、乗客も同様だ。
 たわむれに歩いて職場に向かう。
 何時間も歩いて、その道すがら、何百何千という男たちが路傍で敦盛を舞っているさまを見かける。

 たどり着いた都心部では、さらにおびただしい数のサラリーマンたちがひしめき合いながら舞っている。
 そのかたわらでは、女たちや子どもたちが呆けたような表情でその動作を見守っている
 駅ビルのオーロラビジョンには、全国各地で舞う男たちの姿。
 それまでその身を取り巻いていたものに関係なく、男たちは舞いつづける。
 誰にはばかることなく、心ゆくまで舞いつづけるだろう。

 されば――と、自らも扇を手にし、今や天に響くような鼓の拍動に合わせ、その舞の中へと分け入っていく。
 滅せぬもののあるべきか。
 どこか祝祭にも似た男たちの敦盛にいだかれ、やがて溶けるようにして、きっとこの世界は終わっていく。
 終わっていけばいいと思う。
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