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繰り返し、やがて遠ざかる女の子と俺の生活習慣

2016/01/05



 俺が一ノ瀬始(いちのせ はじめ)を好きになったきっかけは、実を言うとあまりよくおぼえていない。
 騒々しい教室の片隅で、牛乳瓶の底のような眼鏡を通して、いつも一ノ瀬はどこか遠くを見つめていた。
 こいつ、なにを考えているんだろう。
 夏。退屈な授業中。たしか現国だったと思う。
 初老の先生が朗読する古い物語の一節をBGMにして、セミロングの長さに揃えられた彼女の髪と、そこからのぞく形のいい耳と、細いうなじに浮かぶ汗のしずくと、夏服の白さをぼんやりと眺めていて浮かんだその疑問が、きっかけと言えばきっかけだったのかもしれない。

 その日、六時限目の古典の授業から机につっぷして居眠りをし、ホームルームの時間もぶっちぎりでガン眠りをつづけていた一ノ瀬が目覚めるのを待って、俺は彼女に告白した。
 俺はおまえが好きだ。
 放課後、俺と一ノ瀬のほかには誰もいない教室。うるさかったはずの蝉の声が急に遠くなった。
 異性への告白など生まれて初めてのことだったが、わりあいうまくできたのではなかろうか。
 それにしても、告白の言葉というのは魔法の呪文かなにかか。言った相手にではなく、口にした者自身がかかる魔法。好きだと実際に言葉に出したとたん、あ、俺はこの娘のことがこんなにも好きだったのかと驚く。
 遠くで輝いた花火の光を目にしたあと、少し遅れて届く音の大きさに驚くような感じ。彼女への思いが胸からあふれそうになる。街頭やコンビニで流れる陳腐なポップソングの歌詞よろしく、浮かれた感情が、愛しさが止まらない。
 だから、
「あの……ごめんなさい」
 一ノ瀬が眠たそうに目をこすりながらも、はっきりと困惑をにじませた声でそう答えたとき、俺はこの瞬間に死んでしまうのかと思った。
 俺はどんな顔をしていたんだろう。悲しそうな顔をしていたような気もするし、がんばって笑みを浮かべようとして失敗した気持ち悪い顔になっていたような気もする。いや、もしかしたらまったくの無表情だったかもしれない。途方に暮れたような顔だったかもしれない。
 そもそもが、告白して断られたときのことなどまったく考えていなかったのだ。というか、オーケーだった場合のことすら考えていなかった。早い話が、告白すること以外、なにひとつ考えていなかった。
 もしかしたら自分はとてつもない馬鹿なんじゃないだろうか、と真剣に悩みはじめた俺に、一ノ瀬はおそるおそる言った。
「あのね、わたし……好きな人がいるから。だから、ごめんなさい」
 二度目のごめんなさい。ていよく俺をあしらうための作り話である可能性など微塵も考えず、そうか、この娘には好きな男がいるのかーと心の中で深くうなずき、彼女のことを少し知った気分になって、奇妙な喜びさえ感じた。おそらく告白直後の異常なテンションで精神の働きがおかしくなっていたんだと思う。
 一ノ瀬のことをもっと知りたい一心で、俺は彼女の言う「好きな人」のことをたずねた。
「弐式野(にしきの)先輩……生徒会の」
 そう、照れくさげに彼女は言った。
 生徒会の弐式野と言えば、校内一有名な生徒と言っても過言ではない。
 成績優秀、眉目秀麗、容姿端麗、冷静沈着、質実剛健、文武両道……人の美徳を表す四文字熟語をありったけ、全身全力で体現しているような人だ。
弐式野次美(にしきの つぐみ)。我が校きっての秀才であり、男女問わず圧倒的な人気を誇る生徒会長。ちなみに、名前からもわかるとおり……女子である。
「わたし、その……男の人って興味ないの。ごめんなさい」
 三度目のごめんなさいと一緒に、俺は教室のスピーカーからノイズ混じりに流れる校内放送を耳にしていた。

 下校時間、十分前です。校内活動以外で校内に残っている生徒は、速やかに下校しましょう。速やかに下校しましょう……。

 俺が好きになった娘は、女の子が好きな女の子だった。



 生まれて初めて異性に告白し、三度の「ごめんなさい」をもって初めてフラれたその日から、俺はそれまで以上に一ノ瀬のことが気になって気になって仕方がない。
 すっぱりとあきらめて次の恋を探すべきだ。どう食い下がったところで彼女は男に興味がないんだぞ。無意味だ。不毛だ。徒労だぞ。
 頭ではそうわかっていても、ふと気がつけば一ノ瀬の姿を目で追っている。
 朝、教室に入るときに。まわりの連中に声をかけながら席に座るときに。静かな授業中に。騒がしい昼休みに。
 この世ではないどこか別の位相に焦点を合わせているような不思議なまなざしや、頬杖をついて居眠りをする彼女の横顔を、未練たらしく盗み見ている。

 ある日、一ノ瀬の様子がおかしいことに気づいた。
 眼鏡の奥の瞳が、赤く充血している。よく見ると、目の下にうっすらとくまができている。
 寝不足だろうか。夜更かしでもしたんだろうか。
 だが次の日も、その次の日も、一ノ瀬の瞳は赤く、まぶたは痛々しく腫れていた。状態は日に日にひどくなり、彼女は目に見えて憔悴していく。

 どうした。
 いったいどうしたんだ、一ノ瀬。
 よせ、もう彼女には関わるな。そうささやく心の声を無視する。
 俺はどうしても、一ノ瀬をほうっておけなかった。
 また放課後、誰もいない教室で、例によって昼休みからぶっ通しで眠りこけていた一ノ瀬がようやく起きて、俺の顔を見るなり「あ……おはよう」などと明らかに寝ぼけていたが、かまわず訊いた。
 おまえ、なにか悩みでもあるのか。
 だんだん頭がはっきりしてきたのか、ぼんやりしていた彼女の目に戸惑いが浮かぶ。そして、見ているだけで痛みを感じるほどの深い悲しみ。涙。
 一ノ瀬は泣き出した。眼鏡をずらして、次から次にあふれ出て頬を伝う涙を細い指先で一生懸命受け止める。ときおり低い嗚咽を漏らし、夏服に包まれた細い肩を震わせて、長いこと泣きつづけた。

「わたしね……弐式野先輩に嫌われちゃったんだ」
 ようやく落ち着いたのか、彼女はぽつりぽつりと語りはじめた。
「この前、思い切って先輩に告白したの。校舎の裏に丘があるでしょ。あそこにある大きな杉の木。あの木の下に、先輩を呼び出して」
 そこで一ノ瀬はまた泣きはじめたので、話のつづきを聞くために俺はしばらく待たなければならなかった。
 普段はどこか超然としているくせに実はけっこう泣き虫なんだな、などと思いながら、俺は彼女の途切れがちな話に耳を傾ける。
「先輩……『すまない』って……『悪いが、応えられない』って、私に言ったの。わたし、わかってたのに。たぶん駄目だってわかってたのに。断られたら、わたしの気持ちを聞いてくれてありがとうございましたって、笑ってお礼を言おう、って……」
 きちんと告白した後のことを考えていたらしい。俺とは雲泥の差である。
「でも、言えなかったの」
 一ノ瀬は喉から絞り出すような声で言った。
「わたし、なにも言えなかったの」
 もう一度、繰り返した。
「弐式野先輩から『すまない』って言われたとき、頭の中が真っ白になって……気がついたら逃げ出してたの。泣きながら走ってた。家に帰って、ベッドに潜っても先輩の言葉がずっと頭の中でぐるぐる ぐるぐるして。みっともなく逃げ出して……絶対に嫌われた、気持ち悪い子って思われて、嫌われちゃったよ」
 その気持ちはわかる。なんというか、ごく最近、俺も似たような経験をしているから、とてもよくわかる。でも俺は彼女ほど深刻に思いつめたり傷ついてはいないよな……と、少しだけ申し訳ないような、後ろめたいような気持ちになった。
「……それで、わたし、あなたにすごくひどいことをしたんだなって思って……。自分は何様なんだろうって、自分が自分で嫌になって……ごめんね……ごめんなさい」
 そしてまた彼女は盛大に泣く。
 顔をぐしゃぐしゃにして子供のように泣きじゃくる一ノ瀬を見ながら、俺は怒りを感じていた。
 なんだよ、これ。なんで俺の好きな娘がこんな顔してんだよ。そんな顔をさせてしまって、むしろ俺が謝りたいぐらいなのに……なんで逆に俺が謝られてるんだよ。
 何度か、手を伸ばして彼女の涙をぬぐってやろうかと思ったが、俺はけっきょくなにもしなかった。なにもできずに、うつむく彼女を黙って見ていた。

 彼女のためになにかができると思ったわけでもない。この状況を打破する光明が見えたわけでもない。ようするにこのとき、俺はなにもわかっていなかった。
 にもかかわらず、俺は、大きく息を吸い込んでから、よし、わかった! と力の限り叫んだ。
 びくっ、と彼女は全身を震わせた。驚きのため涙も止まったらしい。
 もう泣くな一ノ瀬、俺に任せろ。
 それだけ言って、俺は彼女に背を向けて教室を出ていく。



 おいおいやめろ。やめとけって。
 任せろってなんだよ。俺はなにもできないしお呼びじゃないのに、なにを勝手に任されようとしているんだよ。なあ、俺よ、いったいどこへ行こうとしているんだ。
 そうは思うが、俺の足は止まらない。
 やっと止まったと思ったときには、俺は生徒会室の前に立っている。
 おいおいおいおい、なにをする気なんだ俺。
 余計なおせっかいはやめておけ。今ならまだ引き返せるぞ俺よ。
 と思ったときには、すでに眼前のドアを思い切りノックしていた。

 思ったよりも狭い生徒会室の中では、一人の女生徒が長机の上にたくさんの書類や図面を広げ、なんらかの執務に取り組んでいた。ちらっと見たところ、もうすぐ始まる体育祭の企画書的なものらしい。
「ん、どうした。きみはたしか二年の……」
 女生徒は優雅な仕草で書類を置き、静かに椅子から立ち上がる。ただそれだけの動作で、まるで美麗な日本刀が鞘から抜き放たれたような凄みを感じる。背筋に軽い寒気が走ったほどだ。
 カリスマ生徒会長、弐式野次美は腰のあたりまである長い黒髪を優雅にかきあげながら、俺に向き直った。普通の人間がやると冗談にしかならないが、この人がやるとおそろしく絵になる仕草だった。 今の一連の動きをGIF動画にしたら、インターネット上で大流行するだろう。
「生徒会になにか用事か?」
 俺はゆっくりと首を振り、違います、あなたに話がありますと伝えた。少しだけ迷ったあと、一ノ瀬始のことで、と付け加える。
 すると、剣先のように細くてくっきりと形の整った眉が鋭くつり上げられる。
「一ノ瀬くんの?……まさか、彼女になにか頼まれでもしたのか?」
 弐式野先輩は有無を言わせぬ口調で俺を問いつめる。なにやら剣呑な雰囲気になってきた。
 そうじゃないんです、と俺は答える。なにから話したものやら。後先を考えないにもほどがあるが、とりあえず俺は素直にすべてを話すことにした。
 俺が、一ノ瀬を好きなこと。
 一ノ瀬が弐式野先輩に告白したあと、深く落ち込み、傷ついていること……。
 さすがは生徒会長と言うべきか、弐式野先輩は俺の話を注意深く聴いてくれた。
「ふむ、なるほどな」
 腕組みをしながら弐式野先輩は一つため息をつく。その姿もまた映画かなにかのワンシーンのように完璧だった。
「一ノ瀬くんには悪いことをしたと思っている……だが、ほかにどうすればよかったのだというのが、正直なところなんだ」
 それはそうだろう。いきなり後輩の――同性の子から本気で愛を告白されたのだから。
 おずおずと、俺は提案してみる。さすがに告白を受け入れてくれとは言えないが、せめて友人として、あるいは先輩として、一ノ瀬をなぐさめてもらうことはできないだろうか。
 すると弐式野先輩は目を丸くし、なにやら世にも珍しい生物を発見したような表情になった。
「きみは……おかしな男だな」
 そうなのだろうか。俺はそんなにおかしなことを言ったのだろうか。
「わざわざそんなことをしても、きみにはなにも得などないだろうに」
 いや、それはそうでもない……と思うのだが。
「しかし、すまないな。それはできない」
 弐式野先輩は俺に背を向け、生徒会室の窓から外を眺めた。遠くの空はうっすらと濃紺に染まり、日没の訪れが近いことがわかった。四角いグラウンドが見える。そこで汗を流す運動部員。硬球がバットに当たる甲高い音。
「私はもう二度と、一ノ瀬始に近づくことはないだろう」



 想像をはるかに超えて強い、それは拒絶の言葉だった。
 なぜですか、と俺は問う。
 弐式野先輩は長いまつげを伏せ、苦悩の色をにじませた。
「私には……私には、この世の誰よりも想い、慕う者がいる。不器用な私には、今はその者のことしか考えられないんだ……だからすまない。許してくれ……」
 精緻な工芸品のように整った顔を苦しげにゆがませる弐式野先輩を前に、俺は混乱していた。
 希代の名生徒会長・弐式野次美に、好きな人がいた。それはそれで衝撃の事実だ。まさにセンセーショナルなニュースである。
……だが、それがどうして、一ノ瀬を拒絶する理由になるのだろう。
 俺が首をかしげていると、閉じられていた生徒会室のドアが勢いよく開け放たれた。間髪入れずにハイトーンの愛らしい声が生徒会室に響きわたる。
「ハイ、ツグミ! 生徒会ワークス、まだ終わらナイノ?」
 唐突に出現したその女子生徒は、弐式野先輩とはまた違った意味で目立つ容姿をしていた。
 金髪。碧眼。だらしなく着崩した夏服の胸元から、はちきれんばかりに豊かなふくらみがのぞいている。
「さっ、サンディ?」
 弐式野先輩の変化は、すさまじいの一語に尽きた。クールビューティという言葉をそのまま絵に描いたような人が、今にも火が出そうなほどにその顔を赤らめたのだ。
 金髪巨乳娘は、長い足でずかずかと室内に踏み入り、俺の姿に目を留めた。人なつっこそうな顔にクエスチョンマークが浮かぶ。
「ワッツ? このコ、どこのコ? ツグミのボーイフレン? まさか彼氏のヒト?」
「ばっ、ば、ちがっ……そんなわけ、そんなわけないだろうっ!」
 両手をばたばたと振り、やたらコミカルな動きで必死に否定のアピールを行う弐式野先輩。
「か、彼はな、なんでもない、そう、本当になんでもないんだ! 私にとってはそう、路傍の石も同じ! いやそれにも劣る! スーパーマーケットで小さなヨーグルトを買うときに付いたり付かなかったりするプラスチック製の小さなスプーン! それぐらいにどうでもいい存在なんだ! サンディ、誤解しないでくれ!」
 そこまで頑強に否定されると、さすがに少しばかり落ち込んでくるのですが……おまけのスプーンて……。
 繊細でもろい俺の心情に配慮する様子もなく、アハハー、とサンディと呼ばれた金髪女生徒は屈託なく笑う。
「ジョーク、イッツジョークだヨー。じゃネ、ツグミ。ワタシちょっとミチクサ食べて帰りマスねー」
「こ、こらっ、寄り道は駄目だぞ! 商店街は意外と物騒なんだからな……おい、サンディ!」
 ぴこぴこっと可愛らしく手を振り、青い目をした巨乳娘は綺麗なブロンドをなびかせ風のように去っていった。
 そして、また生徒会室に静寂が戻ってきた。
 静かだった。俺たちはしばし、互いに無言で立ち尽くす。
 やがて、こほん、と弐式野先輩はわざとらしい咳払いをした。見ると、ばつが悪そうに目をそむけ、流麗なラインの頬を朱に染めている。
 あー、これは。
 まさか。もしかして……。
「……知っているかもしれんが、彼女はサンディ・サンドライト。この春から我が校に通っている留学生だ。私の家に逗留……ホームステイしている」
 俺は黙ってうなずく。生徒会長の家に海外留学生がホームステイしているというのは校内ではわりと有名な話で、俺も知っていた。
 ためらいつつも、俺は念のため確認する。ええと、もしかしてサンディが、先輩の……。
「ああ、そうだ! 私はサンディを愛している。なによりも愛おしく思っているッ!」
 だから一ノ瀬の求愛は受け入れられないし、無用な誤解を避けるために彼女の近くに寄るわけにもいかない、ということらしい。
 弐式野先輩は古風で一途な人で、女の子が好きな女の子だった。



 俺はがっくりと肩を落とす。
 弐式野先輩の気持ちはそれなりに理解できる。女の子同士の恋愛の是非についてはコメントを避けるしかないが、とにかく愛し合う二人の間に一ノ瀬を割り込ませるような真似はできない。
「愛し合う二人、か……そうだったら、よかったのだけれどね」
 自嘲気味に口もとをゆがめ、笑う。笑いながら、彼女が両の瞳から涙を静かにこぼすのを見て俺はぎょっとした。
「……サンディは……私のことなんかなんとも思ってないんだ。一緒に暮らしていても、私は大勢いる友人たちの一人にすぎない。その他大勢、まるで路傍の石ころさ。ふふっ、さっき私が言ったのは私自身のことだな。私こそ、おまけのスプーンのような、無意味で無価値な存在なんだよ……」
 似つかわしくない自虐の言葉を吐きながら、彼女ははらはらと涙を流す。
 また涙だ。今日、俺はいったい何度、女の子の涙を見るのだろう。
 ああ、ちくしょう……。

 わかった! と俺は力の限り叫ぶ。
 びっくりして泣きやむ弐式野先輩。
 それだけ確認して、俺は足早に生徒会室を後にする。



 俺は校外に出て、サンディの姿を探した。
 幸い彼女の姿は非常に目立つ。ほどなく、校舎の裏の丘の上に金髪女を見つけた。
 大きな杉の木陰で、気持ちよさそうに伸びて寝っ転がっている。一ノ瀬が弐式野先輩に告白した場所だ。
「どうしタノ?」
 近づいてくる俺を見て、勢いよく上半身を起こす。その弾みで豊かな胸がダイナミックに揺れるのをしっかりと目撃してしまう。
「ツグミの彼氏サン……はチガうだよネ。あっ、生徒会のヒト? ザッツライ?」
 ころころと表情が変わる娘だ。ただ見ているだけで楽しくなってしまう。そんなアメリカ育ちのサンディは、持ち前の気さくさと明るさで誰とでも仲良くなってしまう校内随一の人気者だった。
 ここまで全力で走ってきたため、俺の息は完全にあがっていた。荒い呼吸を落ち着けようとする俺を、大きな青い目が見つめている。その無邪気な視線が少し痛い。
 さて、どうするか。いつものようになにも考えずにここまで来てしまった俺は、いつものように途方に暮れた。
「ねえ、ダイジョブ? ホケンルーム、行きマスカ?」
 それには及ばない。俺は単刀直入に訊いた。弐式野次美は、あなたのことが好きだ。それは知ってるか。
 サンディはこっくりと首を縦に振る。
「知ってル。サンディも、ツグミのこと好きだヨ」
 そう言ってひまわりの花のような笑みを浮かべる。
 俺はサンディの隣に腰を下ろし、慎重に言葉を選びつつ質問の意図を補足する。すなわちLikeではなく、Loveの話であると。
 サンディは心持ち表情をかげらせ、小さく苦笑いを浮かべる。
「あー、イエス……それも、知ってルヨ。みんなにはナイショだけど」
 片目をつぶり、唇の前に人差し指を立てる。ぐっと顔を近づけられて、俺は不覚にも心を乱す。サンディの体臭なのだろうか。なにやら甘ったるい、いい匂いがする。
 否応なく視界に入ってくる胸の谷間から必死に目をそらしながら、俺は話の先をつづける。ここからが本題だ。
 弐式野先輩と同様に、サンディもまた「女の子が好きな女の子」なんだろう。俺がそう告げると、サンディは仰天した。
「ワイッ? ど、ドウシテ? どうして知ってルノ?」
 ぐいぐいと詰め寄ってくるので、俺はあわてて身体を離す。あー、日本には「二度あることは三度ある」という格言があってだな……と事情をかいつまんで説明する。

「なるほどデスネー。ワタシ、ツグミにソリィ、ゴメンナサイ、謝らなければいけないデス……」
 サンディはスイッチが切れたようにしょんぼりと小さくなってしまう。湖のような青い瞳が、薄く潤んでいた。
 ああ、またか。俺はなにをやっているんだろう。
 次々に女の子を泣かせて。好きな子の好きな子の、また好きな子を悲しませて。いったいなにがしたいんだろう。



 もうすぐ日が沈む。
 空から切り取られて血を流し傷ついたような色の太陽が、遠い世界の果てへと落ちていく。
 えい、おう、えい、おう……。
 グラウンドでは激しい練習が終えた運動部が、軽くランニングで流しながら声を出している。
 えい、おう、えい、おう……。

 俺は黙りこくる留学生に訊く。なあ。サンディにも好きな女の子がいて、きっとその子はサンディに振り向いてくれないんだろ、と。
 果たしてサンディは、柔らかに輝く金色の髪を揺らし、ゆっくりとうなずいた。
 まあ、そうだよな。当然、予想していたことだ。
「ワタシ、みんなと、ずっとフレンド……仲良くしたイ。ツグミとも……ベストフレンド、トモダチでいたイヨ」
 芝生の上で膝を抱えて、サンディがつぶやく。
「それじゃノー、ダメ、なの? ツグミと……フレンドじゃ、ダメ? ラブじゃなきゃ、ダメなの?……デモ、ワタシ……ワタシ」
 なあ、泣くなよ、と俺は彼女に声をかける。無駄と知りながら、それでも俺はそう言わずにはいられない。
 膝小僧の間に顔を埋めて、声を押し殺して泣いているサンディに、俺は最後の問いを投げかける。
 サンディ、おまえが好きな子は誰で、どこにいるんだ。
「スージー・フォアマン。ワタシのホーム、ステイツのオークランドのハイスクールで、センセイ、してルノ……」
 ほう、ステイツ。ステイツね……。
 想い人の名を口にして感情が高ぶったのか、彼女は鼻をすすり「ひっく、ひっく」と小さくしゃくりあげる。
 ああ、もう、たくさんだ。
 いい加減にしてくれ。女の子の涙はもう、たくさんなんだ。

 頭の中で声がする。もういいだろう。これ以上は無理さ。なあ俺。俺よ。
 もう日も暮れる。一日も終わる。さあ家に帰ろう。いろいろあったけど、忘れて眠ろう。ぐっすりと。

……そうは思ったのだが。いや、本当に。わかってはいるのだが。

 俺は、遠くで走っている運動部の連中にも負けない大きな声で、よし、わかった! と叫ぶ。
 驚きのまなざしを俺に向けるサンディの涙は、止まっていた。



 それから俺は、長い旅に出る。
 女の子に会うために。
 そして、その女の子が好きな女の子に会うために。さらに、その女の子が好きな女の子のもとへと俺は赴く。
 アメリカ西海岸の娘。その娘が好きなのは南米の娘。さらにその娘は、欧州の深い森の国の娘に恋をしていた。
 女の子は女の子に恋をする。
 それは真理だ。少なくとも俺をとりまく世界においては、くつがえしようのない圧倒的で唯一の真理。
 アイスランドの寡婦の熱烈な恋。豪州はクイーンズランドに住む老婆の瀟洒な恋。オセアニアの小さな島で暮らす小さな娘の小さな恋。
 彼女たちは皆、自らの恋の甘さと苦さを知っていた。そうして誰もが、例外なく、俺の前で必ず涙を見せた。
 俺が地上に描くその旅の軌跡は、あまたの女の子が織りなす数珠つなぎの円環だ。
 それを辿る。ただひたすらに彼女たちが流す涙の源泉を探すように。
 旅人というより、あるいは巡礼者に近いかもしれない。
 いや、あてどもなく終わりが見えないという意味では彷徨者とでも呼ぶほうがふさわしいか。



 そうして、長い時が流れた。
 気の遠くなるほど長い時だ。
 恋は風化し、愛は忘れられ、思い出は色褪せる。
 美しかった花もいつしか枯れ、塵になり、土へ還る。



 轟々と耳を聾せんばかりのうなり声をあげる砂嵐を避け、俺は巨大な方形石で組み合わされた石窟に入り込んだ。
 遠い昔の騎馬民族や行者が造ったという石の建造物や洞窟の残骸が、ここいらには無数にある。
 俺は冷たい石の壁に背を預け、座り込んだ。軽く息をつくと同時に激しく咳き込む。
 砂漠の乾燥気候がきっかけとなったのだろう。数年前から俺の身を蝕んでいる肺病の発作だった。
 いつもより少しだけ長く、少しだけ苦しい時間がつづいた。やがて、よじれた肺からなけなしの空気を絞り尽くしたあと、そっと口元をぬぐう。麻布の手袋にはうっすらと血が染みていた。
 またつづけて発作が襲ってきた。呼吸不全による軽度の窒息が引き起こす全身の痛みに耐えかね、俺は地べたに横たわる。そのまま血を吐くような咳と、喘鳴混じりの呼吸を交互に繰り返した。

 もう、やめておけよ。
 そんな声が聞こえる。ここ最近、この手の声が頻繁に聞こえるようになった。
 耳が遠くなり、実際の音がよく聞こえなくなってきた代わりなのだろうか。皮肉なものだ。

 もう、いいんですよ。
 また聞こえた。
 しかも今度はえらく鮮明で、ひどく綺麗な声だった。
 冷たい砂にまみれながら、石窟の入り口から外の世界を見た。
 砂嵐はだいぶおさまってきたらしい。難聴の耳にもうるさいほどだった風の音は、だいぶ静まってきている。
 狭い玄室の入り口、その四角く切り取られた空の中に、冴え冴えとした色の月が浮かんでいた。
 それは、まるで誰かの横顔のようにも見えた。
 横顔。遠い、誰かの横顔。
 もうほとんど思い出せないが、たしか俺は、その横顔を眺めるのが好きだった。
 俺は目尻をこすってやにを落とし、しばしぼんやりと天の佳人に見入った。



 チベットの北に横たわる崑崙山脈を超えてなお北の地。見渡す限りの曠然たる砂漠。現地の言葉で「死」だの「無限」だのと呼ばれる物騒な場所に、俺はいる。
 最後に立ち寄った村で補給した水と食糧は、すでに心もとない量にまで目減りしている。この砂嵐をやり過ごしたら、一度戻るべきかもしれない。戻って……。

「戻る必要はありませんよ」

 耳元にささやきかける声。俺は顔を覆う汚れたフードを上げ、薄く目を開けた。
 濁った視界に、ぼんやりと女の顔が見えた。
 女。
 老婆のようにも見えるし、少女のようにも見える不思議な女だった。
 あんたは誰だ、と俺は問う。
 ひび割れ、低くしわがれた俺の声は、どうにか相手に届いたらしい。
「きっと、あなたの探している者ですよ」
 そんな返答が聞こえた。
 あんたが、そうなのか。
「はい。音無虚(おとなし うつろ)と申します」
 彼女はそう名乗った。たしかに俺が探していた人物の名だ。名前と容姿、話す言語からして、生粋の日本人のようだが……それにしても、なんだってこんな辺鄙なところにいるのか。
 女はくすくすと笑った。
「あなただって、そうでしょう」
 違いない。ひどく久しぶりに笑いの衝動がこみ上げてくる。
 聞かせてくれ、と俺は用件を切り出す。
 音無さんとやら。
 あんたが好きな人のことを聞かせてくれ。
 それは誰で、どこにいるんだ。
「わたしが好きな人はね」
 そこで女は小さく微笑んだように見えた。優しく俺をいたわるような。慈愛に満ちた抱擁のような笑顔。
「あなたです」
……なんだって。
 今、なんと言った。
 俺は自分の耳を疑い、訊き返した。
 彼女は告げる。ゆっくりと、一語一語、小さな子供に言い含めるように。
「わたしはあなたのことが好きなんです」
 馬鹿な。嘘を言うな。
「ひどい。嘘じゃないですよ」
 声に少しだけ拗ねたような響きが混じる。
「あなたのこと、ずっと見てたから。ずっとずっと。いつも、がんばっているところ……見てたから」
 不意に俺は理解した。わかってしまった。
 生まれ育った地から遠く離れ、世界から見放されたようなこの不毛の地で。
 俺は今、生まれて初めて、異性から愛の告白を受けているのだと。



「わたしを……受け入れてくれますか?」
 にこにこと、満面の笑顔で。音無虚は言葉を重ねる。
「ここがあなたの終着点。わたしがあなたの終端駅。あなたがこれまで会ってきた、たくさんの女の子たちの想い、痛み、悲しみ、涙、そのすべての源流。だからね、わたしを好きになってくれれば、彼女たち全員の涙を止められるんですよ」
 暗く冷たかったはずの石窟の中は、いつの間にか、おだやかな光に満ちていた。
 ほのかに暖かく、優しいもの。ずっと、俺が触れることができなかったもの。
 光を背負った音無虚の向こう側に、またたくような幻影が見えた。泡影のように一瞬きらめいては消える。俺が出会ったすべての娘たち。女の子を好きになった女の子たち。まるで星のように、数えきれないほどの。
「ね、悲しみの螺旋と涙の連鎖はわたしで終わり。ここで断ち切って、終わらせましょう」
 思春期の少女のように楽しそうな調子で、音無虚は言う。
 俺は――。
「それに、わたし……あなたを独占できなくてもいいですよ。お二号さんみたいな扱いでもいいんです……だから、だから」
 俺は問いかける。
 なあ、音無さん。
「はい、なんですか?」
 どうしてきみは、そんな――今にも泣きそうな顔で俺にそんなことを言うんだ。
「どうしてって……」
 彼女は笑みを絶やさない。涙を見せず、絶対に泣き出さない。
 そうか、彼女は……知っているのだ。俺が女の子の涙を見て、どれだけ傷つくかを知ってくれているのだ。好きな人の涙を止めてやることもできない、そんな俺の絶望と無力感をわかってくれている。
 なぜならそれは、そっくりそのまま彼女自身の絶望と無力感なのだから。
「どうしてって……そんなの……決まってるじゃないですかあ……あなたが、今度もわたしを選んでくれないって……知ってるからに、決まってるじゃないですか……」
 幾度も言葉をつっかえながら、それでも音無虚は笑顔のままだった。
 俺はその魅力あふれる素敵な表情を浮かべる娘の瞳を見返しながら、ありったけの誠実さを込めて、ありがとうと言った。
 そしてただ一言、すまん、と告げた。
「……謝らないでくださいよ、もう」
 目尻に浮かびかけた涙を拭き取り、まばゆい光に包まれながら音無虚は笑う。
 光の中に浮かぶ、無数の女の子。俺がこれまで会った女の子たち。これから会うかもしれない女の子たち。会うことのない女の子たち。ここにありて、またここにあらず、全にして個、個にして全たる女の子たち。
 その視線と想いは互いに触れ合うことなく、交わることなく、ただつかず離れず、ゆるやかにうねり、まわりながら巡り、やがて束ねられ、象限の彼方へかかる極光のように荘厳な螺旋の天幕をかたちづくっている。
「ほんと、おかしな人ですよね。信じられないぐらい馬鹿っていうか」
 声がきこえる。音無虚の声。
 そうだな。俺は愚かだと思う。無力だと思う。なにもできなかった。なにも変わらなかった。ただ、あがいているだけだ。今までも、そしてたぶん、これからも。
「そうですね。あなたの馬鹿さ加減は、きっと死んだってなおらないと思います」
 そうなのかな。
 初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしい。
 この世界でただ一人、過去と未来でただ一人、俺を好きだと言ってくれた/言ってくれる娘の声。
「そろそろ、さよならです。この<吽>の門で断ち切られなかった因果はうつろい、流転して――もうすぐ<阿>の扉につながります」
 知覚しきれないほどのまばゆい光輝を全身に受け止めながら、だんだんと俺の意識はぼやけ、薄くなり、拡散していく。
 ひどく身体が軽い。身も心も驚くほどに軽かった。
 まるで翼が生えたように。どこへでも行けるような気になる。
 けれど俺は、これからどこへ行けばいいのだろう。
「ほら、忘れちゃだめですよ。また逢いに行くんでしょう。はじまりの子に」
 ああ、そうか。
 俺は思い出す。
 いちのせ……はじめ。
 一ノ瀬、始。
 大きな眼鏡のレンズ越しに、いつも俺の知らない世界を見ていたあの子。
 その物憂げな横顔を見て、居眠りする寝顔を見て、こいつはなにを考えているのかなって。彼女の顔をちらちらと盗み見ながら、そうやってあれこれ想像するのが、俺は好きだった。
 そうして、いつの間にやら彼女のことが好きになって。
 俺はとうとう、告白するのだ。
 後先を考えずに。

 いつか、あの遠い日、放課後の教室で。
 一ノ瀬は机に頬をくっつけて、すうすうと安らかな寝息を立てている。
 やがてこの子が夢からさめたら、俺は生まれて初めてその言葉を口にしようと思った。
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