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怖がりの先輩の話

2016/11/13

 小学校に通いはじめる少し前。街に点在する桜の木々がその存在感を増しはじめる季節。いつも遊んでいる公園に見知らぬ男の子がいる。彼は錆びた鉄骨で組み上げられたジャングルジムの頂上に登り、高らかに叫んでいる。
「ぼくには怖いものなんか一つもないぞ!」
 本当かな、と思った私は男の子をジャングルジムから引きずり下ろし、その頭をグーで思いきり殴る。すぐに取っ組み合いの喧嘩になる。互いに叩き合い、服を掴んで突き飛ばし合い、髪を掴み合い、頬の肉を伸ばし合う。
 長い長い戦いの末、僅差で私が勝利する。
 馬乗りになった私に組み伏せられながら、彼は言う。
「今日、怖いものが一つできたよ」
 と、怯えた目をしながら私を指差す。その日以来、彼の怖がる顔を見るのが私の趣味になる。


 彼は私より一つ年上である。
「ぼくのことは先輩と呼んでくれ」
 同じ小学校に入ると、彼はそんなことを言う。とくにこだわりもなかったので、私は彼を先輩と呼ぶようになる。
 お昼休みや放課後、先輩に会うと私はきまってこう尋ねる。
 先輩には、今なにか怖いものがある?
 夏休み明け、子供たちの声が飛び交う校庭。五年生になり、顔を日焼けさせた先輩は少しだけ考えて、真剣な表情で答えを口にする。
「やっぱり、きみが一番怖い」
 私は満面の笑みを浮かべて、彼の背中に蹴りを入れる。そして必死の形相で逃げまわる彼に追いすがってすっ転がし、ズボンを脱がしてやる。


 先輩は、今、なにが一番怖いの?
 中学生になって私の背を追い越し、似合わない眼鏡をかけるようになった先輩に私は問う。
「自分が無意味な存在かもしれない、ということがぼくは怖い」
 そんな答えが返ってくる。いつの間にか私よりも怖いものができたらしい。
「この世界、いや宇宙に……ぼくは、いったいなんの意味を持って生まれてきたのだろう。最近はずっとそんなことばかりを考えている。その考える行為そのものを含めたすべてが実は無意味なんじゃないかと考えると、ぼくは夜も眠れないほどに怖くなるよ」
 その日は強い木枯らしが吹いていて、街の向こう側に落ちていく夕日が下校する生徒たちの影を長く伸ばしている。帰り道、肩を落として力ない笑みを浮かべる先輩に私は言ってあげる。
 うん、先輩は無意味で無価値な存在かもね。
「ええっ……?」
 眼鏡の奥の少しうるんだ瞳に向かって、私はなおもつづける。
 勉強も運動もそれなりだし、とりたてて面白いところがあるわけでもないし。いろいろクラスの面倒ごとを押し付けられて毎年なにかの委員長をやったりするあたりが存在価値と言えなくもない……かもしれないけど、宇宙的な視野で見ればほんのチリみたいなもんだと思う。
「そ、そうなのだろうか……ううう」
 頭を抱える先輩を横目に、私はひそかにほくそ笑む。さっき「とりたてて面白いところがない」などと言ったのは嘘だ。なにかを怖がる先輩は、私にとって最高に面白い存在である。


 先輩は高校生になると生徒会に入り、校内運営におけるさまざまの手伝いをやらされるうち、なかば祭り上げられるようなかたちで二年生の冬には生徒会長になってしまう。
 ちなみに私も同じ学校に入学し、なりゆきで副会長の座におさまっていたりする。
「……ぼくが今、一番怖れていることがなにかわかるかい?」
 数日後に迫った校内行事の雑務のため、放課後に二人で黙々と書類作成をやっていると、訊かれてもいないのに先輩はそんなことを言い出す。
 下校時間はとっくに過ぎている。もう他の生徒会メンバーは帰ってしまい、生徒会室には私と先輩の二人しかいない。
 いいからとっとと仕事をしてください、という私の言葉を無視して先輩は語りはじめる。
「ぼくは……女性のおっぱいを見ることもさわることもなく生涯を終えるのではないか……そのことが一番怖ろしい」
 あっけに取られつつも、私は質問する。少し前まで、自分の存在の意味がどうとか言ってませんでしたっけ?
「そんなことは、もうどうでもいいんだよ!」
 眼鏡の奥の目を大きく見開いて、彼は力強く叫ぶ。
「むしろ人生の意味や価値っていうのは、おっぱいをさわれるかどうかで決まる。それが人生のすべて……そう言っても過言ではないんだよ。人生すなわちおっぱいであり、世界これおっぱい。宇宙もまたおっぱいである。しかし宇宙に存在するありとあらゆるおっぱいは、二つに大別される。ぼくがさわることができるおっぱいと、ぼくがさわることができないおっぱい……言うまでもなくその二種類だ。服と下着に隠され、ぼくから観測することができない女性のおっぱいは、その二種類の可能性を常に併せ持つ。つまり二つの状態が量子的に重なり合っているんだ。……ここまではわかるね?」
 いいえわかりません、と私は冷たく即答する。少なくとも私の胸は量子的に重なり合ったりはしていない。
「ふう……やれやれ」
 肩をすくめながら首を振る先輩。むかっとしたので何年かぶりに先輩の顔面をグーで殴る。
「ぐあっ!」
 うめいて鼻をおさえる先輩に向かって、ゆっくりと私は聞く。自然に低い声になる。
 ねえ、もしかして先輩って、私のことを女だって思ってないんじゃないですか?
「えっ……?」
 先輩はおそるおそる、という感じでうなずく。
「う、うん……きみはなんというか、ぼくにとっては妹みたいなもんだよ。少々、凶暴な」
 私はさらにもう一発、先輩を殴る。もちろんグーで。


 そうして、私たちの間にいくつもの四季がめぐる。
 桜の花が舞う季節の、とある日の夜。
 私の目の前のテーブルの上には、指輪のケースが置かれている。
 その箱の中には、先輩が貯金と初任給をつぎ込んで買い求めたであろう指輪が納められている。
 その円環には、ささやかな輝きをまとう小さな宝石があしらわれている。指輪を挟んだ向こうには スーツ姿の先輩が座っており、ひどく神妙な面持ちで私の言葉を待っている。
 ふと気になって、私は訊いてみる。
 先輩が今、一番怖いことってなあに?
「えっ?……な、なぜ今、そんなことを言うんだい?」
 額に汗を浮かべ、真っ青な表情で彼は訊き返す。これまでに見た中でも最高の部類に入る素晴らしい「怖がり顔」をしている。一番好きな表情。私の大好きな顔だ。
「そんなの決まってるじゃないか。きみの返事を聞くのが……今、一番怖いよ」
 願わくば、先輩のその顔をずっと見ていたい。そう思いつつも、私は贈られた指輪を握りしめて、とある言葉を口にする。



「ようやく眠ったね」
 私の腕に抱かれ、静かに寝息をたてる娘をのぞき込みながら、先輩は言う。
「ぼくが抱っこしたら必ず泣き出すのに、きみだと一発で泣きやむんだものなあ……」
 苦笑しながら、そっと赤ん坊のほっぺたをつつく。
 この子はね、と私は彼に教えてあげる。
 この子はね、きっと先輩の困る顔が見たくてわざと泣くんですよ。
「そ、そうなのかい?」
 そうですよ。だって私の娘ですもの。
「うーん、それは困ったなあ」
 さほど困ったような顔をするでもなく、先輩は微笑みながら娘の顔を見つめている。
 そこで、私は問いかける。
 彼に対してこれまで幾度もしてきた、例の問いかけ。
「……今、一番怖いこと、かい?」
 先輩は首をかしげ、しばし考えるそぶりを見せる。やがてゆっくりと両の腕を伸ばし、私と私の抱く我が子をいっしょに包み込むようにしながら、おだやかな声音でささやく。
「この幸せが、いつか終わってしまうかもしれない。それが一番怖いよ」
 さして怖くもなさそうな先輩の弛緩した表情を眺めながら、私は静かに考える。
 もしも今、この小さな娘の細い首を突然へし折ったら、いったい彼はどんな顔をしてくれるのだろう、と。
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