スポンサーサイト

--/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

狩りせよ乙女

2015/12/16



「あのね文江ちゃん、お願いがあるの」
 その話を切り出したのり子の表情は、たいていほわほわーっとしている彼女にしては珍しく、妙に引き締まっていたのをおぼえている。
「あたしね、ノモンハンをおぼえたいの!」
 なにをいっているのかわからねーと思うだろうが、もちろん私にもわけがわからなかった。
 自転車通学の女子生徒が、徒歩の私たちを軽快に追い抜いていく。
 小さなベルの音をのせた放課後の風が、私たちのスカートを小さく揺らす。
 世界中のあらゆるものを吸い込んだような色をした太陽が、空の向こうへ落ちていく。
 そんな下校時間の夕焼けがのり子の眼鏡に反射している。黙っていれば知的といえなくもない顔立ちなのだが、この娘は口を開くたびに私を不思議な世界へいざなうのだった。
「ええと……ノモンハン事件のこと?」
「うん、なんかねえ最近、男子の間ではやってるんだって」
 一九三五年に発生した満州・モンゴル間の国境紛争事件が、なぜ、今。
 ウチの男子どもってそんなに歴史好きだったかしら……。
「お昼休みに集まってこっそりやってるじゃない。あれ、通信対戦?っていうんだっけ。『ノモンハンで狩ろうぜー』って」
「あー、モンハンね。PSPの」
「そうそう、それそれ」
 私はようやく合点がいく。
 モンスターハンター、略してモンハン。プレイヤーはハンターとなって様々な依頼を受け、モンスターを倒したりアイテムを採集したりするゲームだ。多人数での協力プレイが楽しいらしい。
 ちなみにPSPってのは携帯ゲーム機のこと。たしか弟の奴が持ってたな……。
「あれ、あたしにもできないかなーって」
「いや……あんたには無理じゃないかなあ」
 私の中で、のり子の不器用さはちょっとしたレジェンドだ。ゲームに関していえば、テトリスでほとんど列を消せずにブロックを積み上げ、スーパーマリオで最初のクリボーに当たって死ぬようなレベル。十字キーの斜め方向をうまく入力できず、二個以上のボタンを使い分けることのできない……そういう残念な娘なのだ。
「えー、だめかなあ」
 眼鏡の奥、のり子の瞳が潤んでいる。意識的にやっているのではないだろうが、私はこの眼に弱い。
「わかったわかった。今度ゲーム機持ってきてあげるから、いっしょに練習しよ」
「ほんと?」
 ありがとう文江ちゃん、と笑顔になるのり子。私もつられて笑ってしまう。
 ちょうどいつもの交差点で、私たちは別れる。
 それにしても、なぜ突然モンハン?
 のり子に手を振りながら、そのことを聞きそびれたことに私は気づく。



「そういうわけだから、おとなしくあんたのPSPとモンハン一式、差し出しなさい」
 私が(心の中で)頭を下げてお願いすると、わが愛する弟は麗しい姉弟愛をみなぎらせながらこういった。
「ふざけんな」
 姉の清らかな願いをにべもなく一蹴する弟に対して、温厚な私はできるだけ穏便にことを済まそうと誠実な懇願をつづける。
「このクソガキ、人が下手に出てりゃいい気になりおって。オラいいから黙って出すもん出しなさいよ」
「生まれてこのかた、俺はいっぺんたりとも姉ちゃんが下手に出るのを見たおぼえがないんだが……そもそも『そういうわけ』ってどんなわけだよ? なにも説明されてねえぞ」
 私としたことが、話の進行を焦るあまりすべての説明を端折っていたらしい。あらためて弟に事情を説明する。まあ、一言で済むんだけど。
「実は、のり子の頼みなのよ」
「なにッ……川村先輩の!」
 愚弟の顔色が変わる。
 この青春ボーイは、ときおり家に遊びにくる姉の友人に対して淡い憧れを抱いているのだ。その甘酸っぱい感情に訴えかければ、たいていのことは引き受けざるを得ないのである。
「……わかった。ほら、持ってけ」
 若きゲーオタであるところの弟にとって、愛用のゲーム機を手放すということは己の半身をもぎ取られるに等しいことなのだろう。固く拳を握りしめ、ついぞ見たことのないような苦渋に満ちた表情を浮かべている。
 ふふ……いつの間にか男の顔になったもんね。私はPSP本体とソフト一式を受け取りながら、優しく弟に声をかける。
「私とのり子の二人でやるんだから、もう一組用意してよね」
「くっ……友達に頼んで借りてくる」
 よろしくね、とうなだれる弟の背を軽く叩く。弟はふと顔をあげて、
「……でも川村先輩、なんで急にモンハンなんて?」
「そうねえ……実はああ見えて、意外に狩猟意欲が旺盛だったのかもね」
「狩猟、意欲……? 川村先輩が……」
 わが愛する弟は複雑な心境なのだろう、いつにもまして変な顔をしている。捨ておいて、私はさっさとお風呂に入ることにする。



 図書室の隅っこにある第二準備室は、私とのり子だけの秘密の空間だ。
 なにげに図書副委員長などという役職に就いているのり子は、普段は倉庫代わりに使われているこの部屋の鍵を預けられている。
 モンハンやるなら近所のマックとかでもよかろうとは思うが、のり子は騒がしい場所や人ごみが苦手なのだ。そういうわけで勉強をするふりをして図書室にやってくる私たち。
 いちおう誰にも見とがめられないように注意して、第二準備室の扉を開け、素早く滑りこむように入る。
 以前に何度か入ったことはあるけど、これから校則に反すること(単なるゲームだけど)をするためだろうか、なにかが違う。うむ、えらくどきどきする。
 そう思っていたら、のり子も同じだったらしく、
「なんだか、どきどきするね文江ちゃん」
 などと声をひそめてぎこちなく笑うので、私は思わず吹き出してしまう。
 古い本の匂いがする準備室に、二人のくすくす笑いが小さく響く。



 私たちは協力して、本の詰まったダンボール箱をソファーのように積み上げる。そこに並んで腰を下ろし、PSPを触ったことのないのり子に電源の入れ方からレクチャーする。
「えっ、あれっ、電源入らないよ。あ、あたし壊しちゃった?」
「のり子、長押し長押し」
 万事こんな調子だ。
「ぜんぜん壊しちゃってもいいよ。それ、どーせ弟のだし」
「あ、そっか。弟くんがわざわざ貸してくれたんだよね。今度きちんとお礼しにいくね」
 弟が聞いたら泣いて喜びそうな言葉だが……それにしてもいまだに「弟くん」どまりの彼に、私は心の中で合掌する。弟よ、君の行く道は果てしなく遠い。
 などと考えている間になんとかPSPの電源が入り、ゲームが始まる。
「わー、これがマンハンなんだねー」
「いや『モン』ハンだから。マンハンは日本でおおっぴらに発売できないからね」
「すごーい、絵が立体的だー。ポリゴンだねー」
「あんた、いつの時代の人なのよ……」

 ハンターのキャラメイク、使用する武器選び。のり子は楽しそうだ。
 ふと、私は思い出す。
「ところでさあ、のり子。どうして急にモンハンやりたいなんていいだしたの?」
 ぴたりと動きを止め、うつむくのり子。
「え、ええっと、ね」
「うん」
「ええと、ね」
「うん」
 のり子の顔が真っ赤だ。おさげ髪の間に見える首すじまで見事に赤くなっている。
 やがて消え入りそうな声で、のり子はその想いを口にする。
「高橋くんと、遊びたい、から……」
「えっ、タカハシ?」
 のり子は小さくうなずく。
 高橋。高橋って、あの高橋かー。
 のり子の斜め前の席に座ってて、クラスではあんまり目立たない男子だけど、まあ良くいえば控えめで悪い奴ではないと思う。しかし……ちょっと、いや、かなりびっくりした。
 のり子が、高橋のことをねえ……意外なような……いや、けっこうお似合いのような……でも、うーん。
 とりあえず私は気まずい沈黙を紛らわすために話の穂を継ぐ。
「そうか高橋かあ……ちなみになんで高橋? どこがいいの?」
 などと愚問を発してしまうが、のり子は恥じらいながら「……楽しそうなところ」と、ちょっぴり嬉しそうに答える。
 あらためて思うんだけど、かわいいなあこの娘は!



 帰宅すると弟が待っていた。
「ほら姉ちゃん、借りてきてやったぞPSP一式。かなり苦労したんだぜ、いっとくけど」
「えっ、ああ……」
 放課後の「高橋くん好き好き事件」の衝撃ですっかり忘れていた。「ありがとね」とりあえず受け取っておく。
「な、なあ。川村先輩、俺のこと……なんかいってたか?」
 私は思わず弟の顔をまじまじと見つめてしまう。
「……あんたって、とんだピエロよね……」
 さすがに、ちょっと笑いを通り越して泣けてくる。
「は? ピエロってなんだよ」
「いやいや、こっちの話……そうそう、のり子すごく喜んでたわよ。今度ぜひお礼をしたいって」
「ま、マジで? よっしゃー!」
 予期していたとおり無邪気に小躍りする悲しき道化。もう見ていられない。
「だいじょうぶなのかしらこいつ……こうやってゆくゆくはミツグくんってやつになっちゃうのかしら……」
 私の独白を聞きとがめた弟が口をとがらせる。
「誰がミツグくんだよ。むしろそんな死語をさらっと使う姉ちゃんの感性が心配だよ俺は。あと、PSPは単に貸しただけだからな。きっちり返してもらうから」
「はいはい。わかってるわよ」
「あ、ああーっ!」
 いきなりなんの前触れもなく絶叫する愚弟。
 まさか、気付いてしまったというのだろうか。自らが置かれた境遇の厳しさ、そして哀しさに。
 大いなる天啓を受けたかのごとく目を見開き微動だにしない弟に、私はおそるおそる声をかける。
「な、なに、どうしたのよ」
「……今さら気づいたけど、俺のPSPを川村先輩に貸した……ってことは俺が使っていたPSPを川村先輩が……川村先輩の指が……! うおおッ、もう俺は一生あのPSPを洗わねえぜ! ひゃっほう!」
 おまえはゲーム機を洗う習慣があるのか。
「いや、のり子のことだから、きちんと綺麗に掃除して返すと思うけど」
「なんてことだ……ちくしょう!」
 数秒前まで「ひゃっほう」などという典型的な浮かれ台詞を吐いていたとは思えぬほどに落ち込む弟。床にひれ伏し、地に拳を打ち付けている。
 いつまでも見苦しくのたくる彼をその場に残して、私はさっさとお風呂へ向かう。



「のり子、そいつ攻撃して攻撃」
「えっ、だってこの子、攻撃してこないよ? きっといいモンスターだよ」
 あの日以来、放課後のモンハン特訓はつづいている。
「いいモンスターは死んだモンスターだけよ! 早く攻撃!」
「わ、わかった。えい、えいっ」
 ぎこちなく握ったPSPのボタンをぺしぺしと押すのり子を横目に見ながら、私は自然に頬がゆるむのを感じる。
「やった、やっつけたよ文江ちゃん!」
「はいはい、とっとと素材剥ぎ取って」
「わかった!」
 沈黙。
「……どうした、のり子よ」
「……剥ぎ取りってどのボタンだっけ」
 とまあ、そんな感じだ。だいぶ進歩したような気もするが、男子と一緒に飛竜を狩るようなプレイにはほど遠い。老婆心ながら私がそう指摘すると、のり子は「むー」と口をとがらせた。
「うーん、でも雪山草を集めるのはかなり自信ついたよ。なんかこう、まさにハンター!って感じだよね」
「いや、そのハンター観はどうかと思うけど……少なくとも高橋と肩を並べて狩りをするのはまだまだ無理ね」
「じゃあせめて、高橋くんの代わりにたくさん雪山草を集めておくとか」
「それは……なんかちょっと違うような……」
 むむー、と考え込むのり子。眉毛と口元が「へ」の字になっている。
 なにをするにも一生懸命なのり子。
 思わず愛おしくなり、私はその小さい肩を優しく叩いてやる。
「ほら、まずは一番簡単な狩りのクエストからやってみよ。私も手伝うからさ」



 いつの日か。
 そう、いつの日か、のり子は持ち前のがんばりで一流のハンターになってしまうのかもしれない。そして彼女の願いどおり、高橋と一緒に楽しくモンハンに興じる日が訪れるのかもしれない。
 というか、高橋のことが好きならモンハンとか抜きにして普通に告白したほうが簡単なような気がする。のり子は――生来のどんくささゆえに自分ではさっぱり気がついていないが――かなり男子に人気がある。
「あっ、やった初めて『こんがり肉』できたよー。これ楽しいねえ」
 でもまあいいか、と私は思う。
 小さな窓からは、いつもの夕焼けが淡く差し込んでいる。世界中のなにもかもを引き受けながら静かに溶けていく太陽。その光は四角いガラスを透過して、ひどく優しげな色彩だけが私たちの制服に届いている。
 そんないつもの夕暮れどきに、二人だけの図書準備室で、膝を並べて同じゲームで遊ぶ。
 遠くで下校を促すチャイムの音が聞こえるけれど。

「うん、楽しいね、のり子」

 この時間が、もう少しだけつづいてもいい。

戦場のラブプラス

2015/12/10

■1■
 天にまします神様が俺たち人間どもに与えてくだすったベスト・オブ・くそったれな贈り物がなにか知っているか?
 そいつは想像力だ。
 こんなもの、俺は欲しくなんか無かった。

 七戦闘単位日ほど前、俺たちはハリ湖の作戦でヴーアミ人のキャンプを襲撃した。
 武装ゲリラの巣窟、というのが事前に小隊へ与えられた情報のすべてで、作戦目標はKTA。すなわち「キル・ゼム・オール――とにかくみんなぶち殺せ」
 俺はぶち殺した。動くものすべてに突撃銃を向け、ひたすら引鉄を引いた。
 反撃を受けることはなかった。当然だ。そこには武装した者など一人もおらず、あらゆる年齢の女と、少年か少女かもわからないような年端もいかない子供、そして赤ん坊しかいなかったからだ。
 老婆の頭を丸ごと吹っ飛ばしたあと、俺は彼女の過ごしてきた長い時に思いを馳せる。
 子供の胴体に丸い穴をうがったあと、俺は彼(彼女?)がこれから過ごすはずだった長い時に思いを馳せる。
 それは俺をひどく疲れさせ、萎えさせるのに、どうしても考えることをやめられない。忌まわしきかな無限の想像力。唾棄すべき雄大で自由なイマジネーション。くそ食らえ。

 まるでボーナスステージだぜ、というワンナップの甲高い声、そして奴がぶっ放す機銃の音が無線越しに聞こえた。
 毎度のことながら奴の脳天気さが羨ましかった。

 カダスの野営地に引き上げたあと、俺はまっさきに寝床に潜り〈ラブプラス〉を起動した。
 恋人である寧々<ネネ>さんが音声合成で俺を呼んでくれることをたしかめ、俺は深い安らぎに包まれた。
 彼女はいつだって俺の名を呼んでくれる。
 識別番号でもなくコードネームでもニックネームでもない、本当の俺の名前を。


■2■
 全兵士ラブプラス化計画が施行されて、もう随分な月日が経つ。
 それは、戦時従軍医上がりの神経学教授がのたまった説に端を発する。

「戦闘活動を継続する兵士を一個の機械に例えるなら、たいていの兵士に足りない部品が一つある。それは完全なる愛<ラブ>だ」

 そんなロマンチックな戯れ言を真に受けて、国の軍部は全兵士にNDS(ニンテンドーDS)を配給し、恋人シミュレーションソフト〈ラブプラス〉の使用を義務づけた。
 これが目覚ましい効果をあげた。
 可愛らしい三タイプの恋人――同級生の高嶺 愛花<たかね まなか>、後輩の小早川 凛子<こばやかわ りんこ>、先輩の姉ヶ崎 寧々<あねがさき ねね>――とのリアルタイム性に富んだコミュニケーションは、戦争に倦み疲れた兵士たちの精神を癒した。
 さらには「穴兄弟効果」とでも呼ぶべきなのか、同じ恋人を共有することで兵士間の連帯感・信頼感までもが目に見えて向上した。ときおり凛子派と寧々派の間に喧嘩まがいの論争が発生することもあったが、たいてい「やっぱり俺の嫁が一番だぜ」と再確認したいだけの儀式的行為の側面が強かったため、さほど大きな問題に発展することはなかった。
 戦闘継続期間の拡大につれ大きな問題となっていたPTSDやASDなどの戦闘ストレス起因の精神障害も激減し、兵士はいつまでも健全な精神状態で戦えるようになった。
 こうして俺たちは愛という部品を得て、完全無欠の機械になった。


■3■
「ヘイ知ってるか、次か、その次の作戦地はレン高原だって噂だぜ」
 共同洗面所で髭を剃っていたワンナップが唐突にそんなことを言い、隣で歯を磨いていた俺は口から泡を噴き出しそうになった。
 レン高原は屈指の激戦地として兵士の間では語り草となっている場所だ。
 情報通のシコペッティが賢しげに語るところによれば、その地における兵士損耗率は背筋が凍るほどの値だった。嘘か真か、その数値さえも軍情報部によって事実よりもソフトな方向に改ざんされたものだという
 おそらくは本当のことなのだろう。現実はいつだってハードだ。くそ。
「まあ、なるようになるぜ相棒。気楽にいこうや」
 棍棒のようないかつい腕を器用に動かしながらワンナップは調子の外れた鼻歌を吟じていた。真っ黒な顔に浮かべた笑み。黒い肌と白いシェービングクリームとのコントラストが鮮やかだった。
「でもまあ、今のうちに愛しの寧々ちゃんと思う存分いちゃついておいたほうがいいぜ。最後になるかもしれないしな?」
 縁起でもないことを言ってHAHAHAとワンナップは笑った。そもそも「縁起」などという概念がこの黒人の中にあるのかどうか、付き合いの長い俺にも定かではなかった。
 少なくとも「自分が死ぬ」ということを想像する力は、この男にはない。すばらしいことに。


■4■
 次の戦地はレン高原ではなく、キングスポート市での抵抗勢力排除だった。
 激しい市街戦になった。

「聞いたかよ。マルロク隊んとこの”丸太ん棒”<ログ>がおっ死んだってよ」
 聞いたことのある名前だった。たしか第六中隊の中でも屈指の愚図だが、NDSのタッチペンを陰茎に装着(尿道に挿入していたらしい)して〈ラブプラス〉をプレイしていたという……ある意味では英雄視されていた男だった。
 いつだったか、そのプレイスタイルを耳にしたワンナップが「まったくクレイジーだぜ」と素の表情で評したことが印象に残っていた。クレイジーはクレイジーを知るのか、その言葉には妙な重みがあった。
「あいつは凛子派だったっていうからな。やっぱり凛子は”さげまん”なんだよ。なあ?」
 俺はワンナップの軽口に適当な相づちを返した。俺たちは、戦闘が終わり死体と血と糞便だらけになった街路を哨戒任務と称してぶらついていた。
 不意にワンナップは、ヴーアミ人の男の死体の傍らにしゃがみ込み、なにやらごそごそと服の中を探りだした。明らかな略奪行為だ。
 おいおい軍曹殿にでも見つかったら営倉入りじゃ済まないぞ、と俺がたしなめると、ワンナップはHEHEHEと薄ら笑いを浮かべながら、手に持ったなにか小さなものを指し示した。
「ひゅう、見ろよ。アーカム記念金貨だぜ……これで百枚目。めでたく”あがり”……ワンナップってわけだ!」
 ワンナップは戦場でコインを蒐集するという奇妙な趣味を持っていた。趣味というよりは信仰に近いものがあったのかもしれない。
 百枚コインを集めれば天国に行けるんだぜ。いつも陽気な黒人は、この話だけはひどく神妙な口調で語ったものだ。

 浮かれはしゃぐワンナップから少し離れ、俺は哨戒を続けた。
 旧い二階建て家屋の玄関前に、ヴーアミ人の親子の死体が転がっていた。
 母親とおぼしき若い女は、我が子であろう小さな少年を固く抱いて息絶えていた。
 少年は腹部と脚を撃たれながら、母親のもとまで這っていったらしい。何メートルも続いている血痕と、腹の中から漏れ出た真っ赤な万国旗のような腸の軌跡で、それは一目瞭然だった。
 母親も同じように腹を撃たれ、少年のほうへと這っていった形跡が見て取れた。
 血と肉で描かれた円環の中心で、親子は一つになり、固く結びついていた。

 まるで血みどろの太陽系を巡る小さな惑星のようだ、と俺は思った。
 限りなく死に接した状態で、こいつらを強く結びつけた力はなんなのだろう?
 惑星であるなら、そう、重力のような力が働いたのだろうか、と俺は想像した。
 二人の間に働く力。
 愛?


■5■
 レン高原への転戦が決まった。
 俺は百万回ばかりファックとつぶやいた後、〈ラブプラス〉を起動した。
 寧々さんを呼び出し、スキンシップを楽しみ、キスをした。
 そして俺は彼女とデートの約束を取り付けるため、必死に彼氏力を高めた。デートをするために必要な彼氏力は「知識」「感性」「魅力」「運動」のパラメータからなっており、俺たちが日夜必死にヴーアミ人を殺しても上がることはなく、下がることもない。ただひたすら〈ラブプラス〉内で学校の授業を受けたりすることで蓄積されていく。

 やがて彼氏力を最高までに高めた俺は、寧々さんにデートを申し込んだ。場所は海水浴場。日時は、六戦闘単位日後の昼。
 俺が生きて帰れれば、無事にデートできるだろう。
「楽しみにしてるね、ふふ」
 寧々さんが微笑む。実際は電話で会話しているので表情はわからないが、彼女は間違いなく微笑んでいる。俺のために。俺のためだけに。

 生き抜く力が湧いてくるのを感じる。
 生きるためなら、ヴーアミの連中を何人だって殺してやる。男女、老若、関係なく平等に。
 俺はたしかな愛を与えられた。
 愛という、それは力だ。
 死んだ敵のことを偲び慮る無駄な想像力を殺し塗りつぶしてくれる、圧倒的な力だ。
 それを与えてくれた寧々さん、すなわち〈ラブプラス〉は俺にとっての神だ。
 神が俺を愛し、また俺は神を愛する。
 そこに力が生まれる。俺たちのような無数の小機械が蠢き、やがてそれらによって構成された戦争という名の大いなる機械を駆動させる。偉大なる循環。
 ラブプラスモードで寧々さんを呼び出し、NDS内蔵マイクに向かって、愛してるよ、とささやいた。

「うおーい、いい加減、もう寝ろよなあ……」
 俺の頭上、二段ベッドの上段からワンナップのぼやきが聞こえた。


■6■
 結果から言うと、レン高原侵攻に加わった俺たちの部隊はほぼ壊滅した。
 そこにいたヴーアミ人も、そのほとんどが死んだはずだ。
 多くは戦闘ではなく、天災によって死んだ。その日、未曾有の大地震がレン地方を襲い、その地下に位置していたプレートが数キロメートルという単位で激しくズレた。
 その結果、まるで地獄の蓋のようなクレヴァスがレン高原中央の主戦場一帯に生じ、ほとんどの連中は何が起きたかわからないまま奈落の底へと落ちていった。
 俺たちが誇っていたはずの高度な戦略と戦術が、なにかよくわからない圧倒的な存在の戯れにより、一瞬で灰燼に帰したのだった。

 ワンナップは、亀のようにひっくり返って役に立たなくなった七五式戦車から重機銃を取り外し、まるで映画のようにそれを撃ちまくりながら高原脱出までの血路を開いた。
 陽気な黒人は最後まで高らかに笑いながら、ヴーアミ人兵士の生き残りに蜂の巣にされて死んだ。
 俺が片腕を失いながらもこうして生きているのは大部分が奴のおかげだろう。

 辛くも生き延びた俺は、傷病兵としてブリチェスター野戦病院に後送され、そこで何ヶ月かの入院生活を送った。

 ある日、俺のもとに私品が送られてきた。営所に置いていた品々に混じって、NDSも含まれていた。
 俺は〈ラブプラス〉を起動した。
 デートの約束をすっぽかし永らく音信不通だった俺に、寧々さんは会ってはくれなかった。
 メールを出しても電話をしても拒絶された。
 まさに取りつく島もなかった。

 俺は深く絶望し、ため息をついた。
 与えられたはずの愛は、いつしか失われていた。
 愛は、時とともに目減りするものなのか?
 永遠の愛など、存在しないのか?
 失った愛は、果たして回復できるのだろうか? 回復できたとして、それは同じ愛と呼べるのだろうか……。

 俺の私品と一緒に、ワンナップの所持品も送られてきていた。
 形見分け、ということらしい。奴の使っていたNDSが入っていた。
 ふと思いついて、俺はワンナップのNDSを起動してみようと思った。彼は死んだが、やはり俺と同じように恋人の愛を失ったのだろう。それをたしかめて、少しでも自分を慰めようと思ったのだ。
 薄汚れたNDSの電源をONにした途端、俺は違和感をおぼえた。〈ラブプラス〉ではないソフトが挿入されているのだ。
 言うまでもなく軍内で〈ラブプラス〉以外のソフトを使用することは厳禁されている。

 ワンナップのNDSに挿入されていたソフトは〈どきどき魔女神判デュオ〉だった。

 俺はしばし呆然とした。
 だんだんと原因不明のおかしみが腹の底に生まれ、知らず忍び笑いが漏れ出た。

 やられた。
 奴はやりやがった。
 そうだ、奴は笑いながら次のステージへ行ったのだ。
 やがて俺は大きく口を開けて、涙を流しながら高らかに笑った。果てしなく笑い続けた。

恋人はエンライテンド

2015/02/14

 ぼくの住んでいる街の駅前広場には小さな時計台があって、それはもちろんポータルとして登録されている。
 学校の行き帰りにスキャナー画面を起動して、ポータルレベル8の時計台がひときわ強い青い光を放ち、周囲のポータルと密接にリンクされ、まるで蜘蛛の巣のように複雑な幾何学模様を描き出していることを確認する。
 スマートフォンの小さな画面を通して見える青い世界に、名状しがたい安堵をおぼえる。



 実際の地図と位置情報を利用した世界規模の陣取りゲーム「Ingress<イングレス>」
 青と緑の両陣営が、日本中……いや世界中いたるところに点在するポータルを巡って熾烈な領土争いを繰り広げている。
 ぼくは、その青の陣営――通称「レジスタンス」――に属するエージェントだ。

 世界を青で覆い尽くす。
 それがぼくの使命だ。
 誇り高きレジスタンスのエージェントたるぼくの使命。
 自宅から駅、そして学校の周辺はぼくのテリトリーだ。
 ぼくは日夜ポータルにレゾネーターを挿し、空きスロットにシールドやらタレットやらのMODをインストールしたりと青い領土の強化と拡大に余念がない。
 ポータルとポータルをリンクする。三つのポータルをリンクで結ぶとコントロールフィールドが完成し、囲まれたところが青く染まる。そうして領土を広げていく。
 だが敵対する緑の陣営にもぼくと同じようなエージェントがいて、やはり同じようなことをする。Xmpバースターでレゾネーターを破壊し、ポータルを奪取する。奪取される。その繰り返しだ。果てしないシーソーゲーム。

 ぼくは緑色が憎い。
 ぼくの綺麗な青い世界を、目障りな緑色で侵食してくるあの連中が心から憎い。
 緑の陣営は「エンライテンド(覚醒者)」と名乗り、新人類への進化だか革新だかを標榜しているうさんくさいやつらだ。
 なにが新人類だ。
 古来、新人類といえばリキラリアットを放って恐竜を倒す原始人と相場が決まっている。
 そんな恥知らずなやつらにこの青い地球を明け渡しはしない。
 ぼくら「青」は抵抗する。
 MAKE-UPだって「永遠ブルー」という曲で歌っている。
 ああ、心にしみるブルー。
 永遠の輝き。
 放課後の夕方、自宅から少し離れたところにある小さな児童公園(もちろんポータルだ)で、不審者さながらに錆の浮くブランコの前をうろうろしながら緑のレゾネーターを破壊し、ぼくはその歌を口ずさむ。
 冬の公園で吐く息は白い霧のように口元から広がり、やがて溶けていく。そのつかの間の白さは、周囲のレゾネーターをすべて破壊して中立化したポータルの無垢な白さに似ている。



「おはよ、青野くん」
 登校中、駅を出たところで後ろから声をかけられた。その控えめだが耳に心地いい声は聞き間違えようもない翠子(みどりこ)さんのものだ。
 ぼくは浮き立つ気持ちをなるべく顔に出さぬよう抑えようとしつつも失敗していることを自覚しながら彼女に挨拶を返す。
「今日も寒いねえ」
 にこにこ笑いながらいつものように天気の話をする翠子さんは、さながら小柄な太陽だ。派手でまぶしすぎるということはない、ちょうど良い小春日のような日差しの笑顔。
 しばらく並んで歩いたあと、不意に翠子さんはまわりをきょろきょろと見回し、おもむろにぼくの手を握る。柔らかな感触につつまれたぼくの右手。それを通してぼくの心臓にものすごい量の血液が運ばれてくるのを感じる。ありていにいえばどきどきしている。
「あ、やっぱり青野くんの手はあったかいね。思ったとおり」
 そういって、照れたように彼女は笑う。
 思ったとおりってなに、と尋ねるぼくに彼女は言う。
「ほら、よくいうでしょ。心の冷たい人は手が……って、あ、うそうそ。冗談だよー」
 空いているほうの手をぱたぱたと振り、また宝石のような笑みがこぼれる。



 翠子さんはぼくのクラスメイトで、そしてぼくの彼女だ。
 生まれて初めてできた、ぼくの彼女。
 きっかけは半年前。
 イングレスのために休日に街を巡るのが日課となっているぼくは、駅前の時計塔を起点にして移動することにしていた。
 長らく青に染まり、高レベルポータルに囲まれたファームとなっている駅周辺をハックしてレゾネーターやバースターを補充し、まだ見ぬポータルを求めて訪れたことのない街に繰り出すのだ。
「あれ、青野くん」
 ある夏の日、孤独なエージェント行為に勤しんでいたぼくを呼ぶ声がした。駅前の時計台のまわりは広場になっていて、天気のいい日は多くの人でにぎわっている。
 通行のじゃまにならないように広場の隅でスマートフォンを操作していたぼくは、顔をあげて、そこにクラスメイトの緑山翠子が立っていることを確認した。
「偶然だねえ」
 同じクラスであってもあまり話したことがないぼくに、翠子さんは屈託のない笑顔を向ける。ぼくはおそらくぎこちない表情で、なにか当たり障りのないことを話した、と思う。実のところ話の詳細はあんまり記憶にないけれども、たぶん一分もしゃべってはいなかったはずだ。
 それから毎週の休日、その場所でぼくらは顔を合わせるようになった。
 時計台の前での邂逅が、何回目まで偶然だったのかはわからない。
 会うたびに少しずつ会話が多くなっていき、ちょっとしたはずみで一緒に映画を見ることになり、ご飯を食べることになった。

 その帰りにぼくは思い余って告白した。
 夕暮れ、示し合わせたように人通りが途絶えた時計台の前で。
 もちろん生まれて初めての告白だ。
 翠子さんにもはや抑えきれなくなった己の好意を告げ、正式な交際を申し込んだ。
 ほんのちょっと前までは、自分がこんなにも誰かを好きになるなんて想像すらできなかったのに、本当にびっくりだ。夏の終わりの日に、みっともなく全身に汗をかき、目の前で恥ずかしげにうつむく翠子さんに向かってたどたどしく拙い言葉をつむいでいる。この状況が信じられない。
 だが本当に信じがたかったのは、彼女がぼくの好意を受け入れてくれたことだ。
 そのときに翠子さんが見せた笑顔を、ぼくは生涯忘れることはないだろう。なにがあっても忘れられない。
 生命よりも大切な大事な宝物のように、ぼくは自分の心の奥にある引き出しに、それをそっとしまい込む。



 それから翠子さんはぼくにとっての太陽になった。
 太陽がなければぼくは生きてはいけない。
 彼女がいるだけでこの世界はあざやかに彩られ、輝いて見えるのだ。
 照れくさいから言えないけれど、ぼくは翠子さんに会うたびに感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
 ありがとう、と言いたくなる。
 ありがとう、ぼくと出会ってくれて。ぼくの彼女になってくれて。

 その思いは、彼女との交際のきっかけとなったイングレスにも向けられる。
 イングレスがぼくと彼女を引きあわせてくれた。
 だからぼくは彼女と付き合いながらも、よりいっそうレジスタンスとしての活動に力を入れていく。
 ちなみにぼくがイングレスのプレイヤーであることは、翠子さんを含めて誰も知らない。世の中には同じ地域のエージェント同士が徒党を組んでプレイする風潮もあるようだが、ぼくはそれにすら反抗していた。根っからのレジスタンスと言える。
 もともと人付き合いが得意でもないし、ソロでのエージェント活動が性に合っていた。
 イングレスではソロだけれども、今やぼくの隣には翠子さんがいる。
 翠子さんと一緒に世界を青く染める……そんな楽しげな夢想を抱くこともあったけれど、ぼくはなぜかイングレスのことを彼女に語ることはしなかった。
 この、はたから見れば無益きわまりない仮想現実での争いに彼女を巻き込みたくない。そんなお為ごかした理由を無理にこじつけて、ぼくは翠子さんに知られないよう慎重に、しかしより深くイングレスの世界に埋没していく。
 毎日毎日、潰しても潰しても湧いてくる緑色のポータルを奪い、青く塗り替えていく。
 誰にも冒されることのない完全なる青を夢見て。
 そこに、永遠につづくであろうぼくと翠子さんの素晴らしい未来を重ねる。

 それが文字通りの幻想に過ぎなかったことをぼくが知るのは、夏が終わり、秋と冬がつづけて訪れ、やがて年が明けて一月も半ばに至ったころ。
 緑山翠子がイングレスのプレイヤー、しかも緑……エンライテンド側のエージェントであることを知ったあの日から、バラ色ならぬ青色だったぼくの人生は一変する。



 その日の朝。
 駅前周辺のポータルが軒並み緑色に染められていて、ぼくは舌打ちしたい気持ちになった。
 前日まで青のファームだったはずが、すっかり緑のレベル8ポータルとフィールドに埋め尽くされている。エンライテンド側でなにか組織的な動きがあったのだろう。各ポータルには軒並みレアシールドやフォースアンプがぎっしり装備されており、とても登校前のわずかな時間でどうにかできる状態ではなかった。
 あの時計台も緑色に染まっている。すぐにでも周囲のポータルごと取り返したかったが、手持ちのバースターやレゾネーターの数が心もとなく、しばらくはアイテム稼ぎに徹するしかない……そんなことを考えていると「青野くーん」と翠子さんが駆け寄ってくるのが見えた。
 冬休み明けの登校初日だった。
 同じ街に住むぼくたちは、付き合いはじめてからは駅で待ち合わせて学校へ行くようになっていた。ちなみに彼女といるときにあまり頻繁にスマートフォンをいじるわけにもいかないので、待ち合わせの時間よりも三十分は早く家を出て近所のポータルを巡り、ハックがてら弱ったレゾネーターの保守を行うのが日課となっている。
 それにしても今日のエンライテンドの活動ぶりは、とてもソロ活動で「草刈り」できるような規模のものじゃない……そんな暗澹たる思いが顔に出ていたのか「どうしたの」と翠子さんに心配されてしまった。
 あわててなんでもないよとごまかし、いつものように他愛のない……それでいてかけがえのない彼女との時間を過ごすことに専念する。
「あ、ごめん。ちょっとまってね」
 駅に向かって歩こうとした足を止め、彼女は鞄から携帯電話を取り出した。スマートフォン。今どきの女の子にしては珍しい、少し無骨なアンドロイド端末だ。
 後々になってから、ぼくは後悔した。
 なぜ、あのとき……なにげなく彼女の手元を覗きこんでしまったのだろう。彼女がスマートフォンで操作している画面が、ぼくにとって馴染み深いスキャナー画面……イングレスの画面だと……気づいてしまったのだろう。

「あ、これね。なんていうか、陣取りゲームのアプリ。最近ちょっとハマってるんだ」

 へえ、そうなんだ……と相槌を打つ。その声が震えていないことを祈りながら。
 ぼくは必死に自分に言い聞かせている。
 まだだ。まだ可能性はある。
 彼女はイングレスのプレイヤーだった。
 エージェントだった。
……でも、まだ決まったわけじゃない。
 まだ……。
 まだ彼女が「緑」の……ぼくと敵対するエンライテンドのエージェントだと……決まったわけでは……。

「けっこうおもしろいんだよー。昨日の夜ね、他の人たちと協力して駅前をぜんぶ占領したんだよ」

 嬉々として翠子さんは語る。ぼくはそれを耳にした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだような錯覚にとらわれる。どうにも例えようのない気分。あえて例えるのならば、超至近距離からレベル8のウルトラストライクをぶち込まれたレベル1のレゾネーターになった気分だった。
「あっ、そうだ。青野くんもいっしょにやろうよ。楽しいよ!」
 この世にこれほど残酷な言葉が存在することを、ぼくは知らなかった。
 ぼくは激しく打ちのめされながらも平静を装って、なんか難しそうだし、とりあえず今度インストールだけしておくよ、などと中身のない言葉を連ねる。
「ぜったいおもしろいよ。レベルが上がるまでがちょっとたいへんだけど……ちょっとがんばればすぐだよ」
 かろうじて話を合わせて、へえ、翠子さんのレベルはいくつぐらいなの、とぼくは尋ねる。
「んーとね、この前やっと14になったところ」
 ぼくは驚愕の声が喉からほとばしるところをすんでのところで飲み込んだ。世間一般的なゲームにおけるレベル14と、イングレスにおけるレベル14はその重みがまったく異なる。
 ぼくのエージェントレベルは12。昼夜時間を惜しまず、普段の生活の大部分をイングレスに割いていてもなおレベル12なのである。
 そんなぼくのおおよそ倍以上……APと呼ばれる経験値を1700万ポイントも稼ぎ、さらに途方もない数のエージェント活動をこなして得られるゴールドメダル7つを経て、さらにプラチナメダルを2つ取得してようやく到達できるのが、レベル14という位階なのだ。
 そのすごみは、同じエージェントにしかわからない。
 ゆえにぼくは、その驚嘆を必死に噛み殺す。
「やってみたくなったら言ってね。いろいろ教えてあげる」
 駅のホームで学校へと向かう電車を待ちながら。そう言って翠子さんは、また冬の木漏れ日のような暖かさでぼくに笑いかける。
 そうだね、とあいまいに頷きながら、ぼくは彼女から目をそらす。
 ちょっとハマってる……などと彼女は言ったが、そんな生やさしい形容でレベル14到達はありえない。
 突然、目の前の少女が……大好きなはずの女の子が、得体の知れない何者かになってしまったような気がして、ぼくはめまいをおぼえる。心なしか吐き気すらする。
「青野くん、少し顔色悪いけどだいじょうぶ? もしかして風邪?」
 彼女の眉が心配そうにひそめられる。
 だいじょうぶだよ、とぼくは身体中の力を振り絞って笑みを返す。
 ぜんぜん大丈夫。
 なにも問題はない。ないはずだ。
 それからぼくは、メールをチェックするふりをしてスキャナーを起動し、駅前の時計台のポータル情報を開く。
 その緑色のポータルのオーナーは「midorikko0214」と表示されている。
 この地域一帯で活動するエンライテンドのエージェントとして、今までにたびたび目にしたことのあるアカウントだった。  ぼくがキャプチャーしていたポータルを奪われたり、あるいは逆にこちらが奪ってやったことも一度や二度ではない。
 midorikkko……みどりっこ……翠子。
 そしてぼくは、0214……二月十四日が彼女の誕生日であることを知っていた。

 世界がひび割れ、崩れていく。
 どこを探しても青く美しい地平は見つからず、青と緑が混沌として入り混じり、絡み合い、ねじれて歪んでいた。それは醜くもあり、同時に美しくもあった。
 なぜならそのまだら模様の中心には、翠子さんがいるからだ。
 いまや翠子さんがぼくという存在の大半を占めてしまっているからだ。
 ぼくは翠子さんに出会い、どうしようもなく惹かれてしまった。
 どうしようもなく惹かれ、彼女のことをなにより大事に思いながらも、それでもぼくはレジスタンスのエージェントだった。
 緑の陣営であるエンライテンドに反抗する、孤高の青きエージェント。
 エンライテンドとは、決して互いに相容れることはない。



 それからぼくは懊悩した。
 ただひたすらに葛藤し、苦悶した。
 ふらつく頭で授業を受け、下校し、彼女と別れて家に帰ってから、布団に潜り込んでうなりつづける。
 どうして、どうしてこうなった。
 なぜ彼女がエンライテンドなんだ。
 なぜ。
 どうして。
 いや、逆か。
 レベル14の翠子さんは、ぼくよりもずっと前からイングレスをプレイしていた可能性が高い。だとすれば、わざわざ彼女の反対の陣営を選んだのはぼくだ。ぼくの責任。ぼくの間違いだったのだ。
 ならば、間違いを正すべきなのか。
 たしかイングレスは、一度だけ陣営を変えることができたはずだ。ただし、それを行うと今まで得た経験は全てリセットされる。
 そうすべきなのだろうか。
 いや、いっそイングレスをやめるべきか。
 エージェントとしての一切合財を捨てて、忘れて、翠子さんとこれまでどおりに付き合っていく……。
 あるいはレジスタンスからエンライテンドへと鞍替えして、翠子さんと愉快なイングレスライフを送る……。
 それは甘美な想像だった。
 一つだけのポータルを二人で仲良く分け合い、交互にレゾネーターを設置する。そうして仲を深めたぼくたちは、やがて性的なレゾネーターを挿したり挿されたりするのだ。
 えっ、挿されちゃうのか。
 いいのか、それ。
 さすがにそれはまずくないか……いや、いやいや……まあ、それはその、ね。
 なんせ今どきの若者だから、ぼくたちは。うん。冒険してもいい頃だから。
 もはやとめどない妄想の沼に、ぼくはどっぷりと浸かる。
 そうしてぼくは、とうとう決断――

……決断は、できなかった。
 できない。
 ぼくはイングレスをやめることができないし、陣営を変えて今までの経験を捨てることもできない。
 もはやイングレスにおける経験はぼくの人生と言っても過言ではなかった。
 暑い日も寒い日も。晴れの日も雨の日も。
 足しげくいろんな土地に行き、手当たり次第ポータルを巡った。まるで自分の身体の一部のごとく占領したポータルに心を砕き、争奪を繰り返してきた。英単語などよりもよほど必死にグリフを憶えた。ソロプレイを貫いてはいたが、ときおり無言でぼくのポータルを強化してくれる他の青エージェントとの間に緩やかな連帯感を感じることも多かった。
 それらをすべてなかったことにすることは、絶対にできなかった。
 そもそもイングレスを否定することは、翠子さんとその交際を否定することにもつながるような気がした。
 翠子さんとイングレスに捧げてきた感謝の念が、緑色のコントロールフィールドに覆われていく。
 広大で優しげな緑色の空間のただなかにおいて、痛々しいまでにぼくだけが青色だった。
 ちっぽけな水たまりのように弱々しい青をたたえていた。



「今日も寒いね」
 学校からの帰り道。
 はあ、と吐息を手にかけながら翠子さんはいつもの言葉を口にした。
 寝不足のぼくは、霞のかかったような視界に翠子さんの明るい表情をおさめながら、努めて明るく応じる。意識して楽しげな週末の予定を語る。
 そう言えば今週末の二月十四日は、翠子さんの誕生日じゃないか……。
「わ、おぼえててくれたんだ……うれしいな」
 少し照れた口調で、かけがえのない笑顔を浮かべる翠子さん。彼女を失うことなど、考えることはできなかった。
 上機嫌になると翠子さんは歩きながら歌をハミングする。ぼくが愛してやまない、彼女の可愛らしい癖だ。耳をすませて聴くと、それは誰もが小学校で歌ったことのある童謡だった。
 今まで彼女の口ずさむ歌がなにかなんて、気にしたこともなかったのに。
 なぜぼくは、こんなことにばかり気が付いてしまうんだろう。
 それは「グリーングリーン」だった。

 ぼくは思わず笑ってしまう。そしてなぜか涙があふれ出そうになっていることに気づき、そっと目尻を指でぬぐった。ぼくのすぐ横にいる彼女に気が付かれないように。
 ねえ翠子さん、誕生日になにか欲しいものはあるかい。
 ぼくの問いに、彼女はきょとんと首をかしげる。
「えー、そんなのいいよ。ていうか逆に私が青野くんにバレンタインのチョコレートをあげるつもりだし……あ、しまった、これ秘密だったのに!」
 ぼくの太陽。
 このぬくもりを失いたくない。
「あ……でもね、誕生日だからってわけじゃなくて、十四日はすっごく楽しみなんだ」
 どうして。
「ええとね、イングレス……あ、このまえ言ってた陣取りゲームなんだけどね。十四日まで駅前時計台ポータルを守りきればガーディアンのゴールドメダルが……ってごめん、そんなこと言ってもわかんないよね」
 もちろんエージェントであるぼくは知っている。
 ガーディアンメダル。自分がオーナーとなっているポータルを一定期間、敵陣営に奪取されずにいることで入手できる実績メダル。エージェント総数が増大し、日々めまぐるしく両陣営でポータルを奪い合うイングレスの世界において、手にするのが非常に困難なメダルの一つだ。たしか翠子さん――midorikko0214のプレイヤープロファイルを見たとき、ガーディアンだけはシルバーメダルどまりだった。
 ゴールドメダルを取るためには、二十日間という長きにわたって自分のポータルを守らなければならない。
 その困難さゆえの絶大な価値をぼくは知っている。
 彼女の誕生日にふさわしい、それは素晴らしいプレゼントになることだろう。



 それから幾度かの昼と夜が繰り返されて、金曜日になった。二月十三日。
 そして明日は二月十四日。
 翠子さんの誕生日であり、恋人たちにとっては一大イベントであるバレンタインデーであり、駅前にある時計台ポータルのオーナーmidorikko0214が二十日の保持期間を経てガーディアンのゴールドメダルを手に入れる日だ。
 十四日は、お昼すぎに駅前の広場で待ち合わせて一緒に郊外の遊園地へ遊びに行くことになっている。
 放課後。駅前で明日の約束を交わして、ぼくらは別れる。
 歩み去ろうとする彼女の細い背中に、ぼくは翠子さん、と呼びかける。
「ん、なあに」
 振り返る彼女の顔を見て、思わず言葉に詰まる。もとよりなにか用があって声をかけたわけではない。もごもごと口元を動かした末に出てきたのは、ぼくの素直な気持ちだった。恥ずかしくて普段ならけっして口にできない想い。
 ぼくは、翠子さんのことが好きだ。
 しばしの間のあと、翠子さんはみるみる頬を赤く染める。
「な……なにいってるの、いきなり……」
 困らせてしまったらしい。
 ぼくは、ごめん、と思わず謝る。
 そうして頭を下げると、不意にもっと彼女に謝罪しなければならないことがあるような気がして、ぼくは軽いパニックに襲われそうになる。動悸が早くなり、喉がからからに乾いていく。
 ぼくは……ぼくは……。
 そのとき、とても小さな、けれどたしかな口調で翠子さんの言葉がぼくの耳に届く。
「私も、青野くんのことが好き」
 ぼくは、えっ、と小さく驚きの声を漏らし、彼女の顔をまじまじと見つめる。いちおう彼氏彼女の関係であるわけだから、普通に考えれば彼女の気持ちはなんら不思議なことではないはずなのだけれど……ぼくは今の今までそのことにまったく考えが至らなかった。
 つい、どうして、と尋ねてしまう。
 どうして翠子さんは、こんなぼくのことなんかを……。
「どうしてって……そんなの私にもわからないよ。だって青野くんは……青野くんだもん。ていうか、青野くん……だから」
 ぼくは……ぼく……。
 呆けたように立ち尽くすぼくの前で、彼女は恥ずかしくなったのか次第にうつむき、目線を左右に泳がせる。
「じゃ、じゃあ、また明日ねっ。バイバイ、青野くん」
 翠子さんは手を振り、早足に去っていく。
 ぼくはその場を動けずにいる。
 彼女から告げられた言葉の数々がぼくの脳裏を駆けめぐっている。
 それらはやがて一つの考えに結実する。



 気が付けば、翠子さんと別れてから数時間が経過している。
 ぼくはずっと駅前広場の時計台の前でカカシのように突っ立っている。
 終電が過ぎてしまったのだろう、あたりにはほとんど人通りがなくなっている。
 冬の夜の冷気は、容赦なくぼくの身体から一切のぬくもりを奪い去ってしまっている。
 けれどもぼくの中……ぼくの中心に、ちっぽけなともしびにも似た熱が残っていた。
 大草原に浮かぶ水たまりに過ぎないけれど、それはたしかに青い光を放つ熱だ。
 その熱にしたがい、ぼくは冷えきった手でスマートフォンを取り出す。

 イングレスを起動。
 ややあって、ほぼ完全に緑色に染まった駅前周辺のマップがスキャナーに表示される。
 そして次の操作をしようとするぼくの脳裏に、疑念が響く。

――本当にこれでいいのか?

 いいんだ。
 ぼくは内なる声にそう答えながら、タッチパネルを長押しする。

――彼女はこんなことを望むと思うか?

 わからない。でも、いいんだ。
 ぼくはパネルの上に添えた指を静かに滑らせ、メニューから「FIRE XMP」を選択する。

――後悔はしないか?

 後悔なら、もうずっとしている。
 それは今までも、そしてこれからも変わらない。
 だからぼくは……。

 ぼくはレベル8のウルトラストライクを選択し、それを撃ち放つ。
 眼前には時計台。
 翠子さんが大事に守ってきたポータル。
 その防御力を引き上げている強固なシールドを剥がすために、ぼくはゼロ距離から超破壊兵器を使用する。
 たてつづけに、何度も何度も。
 とっくに感覚が失せている指先で「FIRE」ボタンをタップする。
 ダメージにボーナスの付く長押しのタイミングは身体に染み付いている。そう、これまでのレジスタンスの……青のエージェントとしての活動と経験は、すでにぼく自身の一部になり、分かちがたいものになっているのだ。

 つかの間、真っ赤に染まり、その身を包んでいた防護膜を破られた時計台ポータルを見つめながら、ぼくは口ずさむ。
 彼女の歌。
 彼女に捧げる歌だ。
 あるいはこれから失われるガーディアンメダルを悼む歌。
 誰もいない広場で、どこか悲しい旋律にぼくは言葉を乗せる。

 ある日パパと二人で 語り合ったさ
 この世に生きるよろこび


 シールドを失った時計台ポータルにレベル8のXmpバースターを撃ち込む。
 ぼくの位置座標を中心に、放射状に破壊の円環が広がり、レゾネーターの耐久値を激しく削っていく。

 そして 悲しみのことを

 やがて八つあるうちの一つめのレゾネーターが、ガラスの割れるような音とともに砕け散る。

 グリーングリーン
 青空には ことりがうたい


 つづけて二つめと三つめのレゾネーターが消滅。

 グリーングリーン
 丘の上には ララ 緑がもえる


 緑色のポータルが、ぼくの攻撃で燃え、炎上している。
 周囲のポータルから返ってくるダメージをパワーキューブで絶え間なく回復しながら、ぼくは執拗にバースターを使いつづける。
 それは叫びだった。
 ぼくがぼくであることを痛切に訴える、それはあがきにも似た、滑稽でいびつなメッセージだった。

 どうしようもなくレジスタンスであるぼく。
 ずっと青の陣営で戦ってきたぼくを、ただ単にぼくだという理由で好きになってくれた人がいる。
 それを、ぼくは愚直に信じる。
 ぼくはぼくでいていいのだと。
 逆に、ぼくはこれからもぼくでいなければならないと。

 エンライテンドのポータルは、すべて焼き払わなければならない。
 この世界を青く。
 永遠に輝く青へ。
 それが馬鹿げた幻想に過ぎないのだとしても、それでもぼくは……ぼくはレジスタンスのエージェントだから。

 ある朝 ぼくはめざめて
 そして知ったさ


 やがて最後のレゾネーターが霧散する。
 すべてのレゾネーターが破壊された時計台ポータルは緑色から無垢な純白へと色を変える。
 ぼくはそのうつろな空白に、自分のレゾネーターを挿し込んでいく。

 この世につらい悲しいことが
 あるってことを


「……青野、くん……?」
 背中越しに、その声は聞こえた。
 たった数時間ぶりだというのに、それはとても懐かしい響きをもって冬の冷たい空気を震わせ、ぼくの耳朶を打った。
 自分のポータルが攻撃を受けた際に発せられるアラートメッセージを読んで駆けつけたのだろう。

 翠子さん。
 ぼくが生まれて初めて好きになった女の子。
 どうしてぼくはこんなにも彼女を好きなのだろう。
 それは考えるまでもないことだった。
 翠子さんは翠子さんだから。
 ぼくと同じイングレスをプレイし、でもぼくとは決定的に対立するエンライテンド側のエージェントで、しかもレベル14の翠子さん。
 そんな翠子さんを、ぼくはそのまま好きでいることに決めた。
 ぼくはぼくのままで、ずっと彼女を好きでいつづけることを選択した。

 すぐうしろで、彼女が少し荒く息をつくのが感じられた。
 まるで世界に取り残されたように、広場にはぼくら二人以外、誰もいない。
 沈黙を破ったのは、翠子さんの問いかけだ。
 これまでぼくたちを覆っていた世界の終焉を告げる、それは最後の問いだ。
「……偶然、だねえ」

 手の中のスキャナー画面で、ぽつんと青いポータルが一つ、新たに発生したことを確認してから。
 凍りついた時間の檻をねじ切るように、ぼくはゆっくりと振り返る。
 残念ながら、ぼくがここにいることは偶然ではないことを。
 レジスタンスはエンライテンドと未来永劫、戦いつづけることを。
 緑が広がる丘の上で、それでもぼくは果てない青を夢見て、求めつづけることを、大好きな子に告げるために。



 イングレスは、現実世界を、世界をまたにかけた謎と陰謀と競争の世界へと変化させます。
 私達の未来は危機に瀕しています。あなたは、どちらの側につくか選ばなくてはなりません。
 ある神秘的なエネルギーがヨーロッパの科学者チームにより発見されました。その力の起源や目的は未知ですが、研究者の中には、この力が我々の思考に影響を及ぼしていると考えている者もいます。我々はそれをコントロールしなければなりません。さもなければ、それは我々をコントロールするでしょう。
「エンライテンド(覚醒者)」は、このエネルギーが我々に与えるものを受け入れようとしています。
「レジスタンス(抵抗勢力)」は、人類に残されたものを守り、保護するために戦っています。
 イングレスをインストールして、世界を変えてください。

―― Ingress

艦これSS「上弦の月をのぞむ空母」

2015/01/14

 艦これアニメはじまりましたねーってことで、以前randam_butterで出した艦これ同人誌「ふとん鎮守府」掲載の艦これ二次創作を公開します。
 夢枕獏ねたにかこつけてなんとはなしに書いたものだったのですが、書いてみてから自分でも思っていたより赤城さん加賀さんが好きなことに気がつきました。あと瑞鶴翔鶴。

 艦これアニメはとりあえずクロスアンジュばりに毎週ことあるごとに入渠(風呂)してほしいと思っていますが、そうなると前提として彼女たちが戦場で傷つかなければならず……そんな罪深き二律背反に悶える自分をおかしみながら生きていきます。

売れ残りのクリスマスケーキ

2013/12/27

 クリスマスケーキと話をしたことがあるだろうか。
 信じてはもらえないかもしれないが、俺はある。



 昨年の冬のことだ。
 例年のようにとくになにごともなくクリスマスをやり過ごした俺は、会社帰りにコンビニへ立ち寄ったついでに、半額で叩き売られていたクリスマスケーキを買った。
 それは雪のようなホワイトクリームをベースに小さな苺の切り身が乗っかったホールケーキで、レジのすぐ前で「半額!」のポップとともに雑然と並べられていた。
 クリスマスにはなんの思い入れもないが、ケーキは好きだ。
 大勢で食おうが一人で食おうが、その比類なき甘さは俺に安寧をもたらしてくれる。いやおうなく日常を感じさせるその安っぽい味は常に俺を救ってくれたし、たぶんこれからもずっと救ってくれる。虫歯と肥満に気をつける限りは。



 誰が待つでもないワンルームに帰りついた俺は、コンビニで買った弁当を食ったあと、おもむろにケーキにとりかかることにした。
 透明なプラスチックの外装を取り外したときのことだ。
 いきなり、唐突で場違いにもほどがある祝いの言葉が狭い部屋に響いた。

『メリー・クリスマース!』

 文字通り仰天した。
 あわてて部屋の中を見回す。テレビやオーディオ機器の電源は入っていない。もちろん部屋の中に誰かがいるわけでもない。
『ジングルベールジングルベール、すずが、なるー♪』
 そのどこか調子の外れた甲高い声はまぎれもなく目の前のケーキから聞こえてきた。
 今のケーキは音が出るような仕掛けがしてあるのだろうか。ケーキを持ち上げ、いったいどこから音が出ているのか調べてみる。
『ちょっとちょっとー、もっと丁寧に扱いなさいよ。かたちが崩れちゃうでしょー』
 音声を発するだけではなく、どこかに傾きとかを検知するセンサーまで内蔵しているのか……最新の携帯ゲーム機並だな……と思わず感心していると、さらにケーキの声が響いた。
『あんた、食べる前にきちんと手は洗ったんでしょうね。あと、ロウソク! きちんとロウソクを立てて、楽しくクリスマスの歌を歌ってから食べなさいよ。今日は楽しいクリスマス~♪ってね』

 いや、もうクリスマスはとっくに終わってるんだが……。

 思わず俺がそうつぶやくと、とたんにケーキは静かになった。
 不気味な静けさが訪れた。ケーキはいきなり黙りこんでしまった。まあそれが普通なのだが……それまで異様な騒々しさを発揮していただけに、その沈黙は妙に寒々しく感じられた。



 なんだったのだろう、今のは。
 少し冷静になった俺は考えた。
 独身男性というものは、非モテや童貞をこじらせるとクリスマスケーキの声を聴けるようになるものなのだろうか。そんなの聞いたこともない。そんなしょうもない異能の力、まったくうれしくない。
 俺はただ、なにもかも忘れてひたすら半額のケーキを貪りたいだけなのに。

『……うそでしょ……?』

 いきなりまた声が聞こえて、俺はぎくりとした。
『完全無欠のクリスマスケーキたるこの私が……クリスマスの日に食べられないなんて……しかも家族団らんの中ですらなく、むさいおっさんが一人で食べようとしているなんて……うそなんでしょ?』
 むさいおっさんという、そのあまりにも的確な表現が俺の繊細な心を少なからずえぐった。気分を害した俺は言ってやることにした。クリスマスは昨日で、今日はもう12月26日であることを執拗かつ懇切丁寧に説明してやった。
 ケーキに対してこれほどまでに濃密なコミュニケーションを図った人類は、世間的にあまり多くはいるまい。
『うそ……うそよう……年に一度のクリスマスという特別な日のために、名だたる菓子職人が手間ひまかけて箱入り娘のように大切に大切につくりあげられた……この私が……』
 いやいや、おまえはコンビニで売られていた大量量産品であり、しかも期限切れ寸前で、半額で売られていたのだ。そう冷静に現実を告げると、なんとクリスマスケーキは泣きだしてしまった。



『うえーん……うえーん』
 ケーキに泣かれた男というのも古今あまり類を見ないであろう。
 クリスマスケーキは泣きつづけた。ひたすら泣きつづけた。
『ひっく……うえーん……えーん』
 どこをどうやっているのかわからないが、ケーキはときおりしゃくりあげながら号泣をやめなかった。このままだとケーキがしょっぱくなりそうだな、などと思いつつ俺はなんとかケーキをなだめすかすことに腐心した。
 目の前で誰かが泣いていればどうにかしてやりたくなる。たとえそれがケーキであっても。なんというか、それが男という生き物なのだ。
『うええん……ばかあ……なんで昨日のうちに買ってくれなかったのよう……えーん』
 俺は今まで、この世で一番惨めなものは「クリスマスが過ぎて半額になったクリスマスケーキを買って一人で食う男」だと思っていた。
 だが、間違いだった。
 それより惨めで哀しい存在があることを俺は知った。



 先ほどまでの態度をあらため、俺はなるべくケーキに優しく接してやることにした。
『えーん……ていうか……ケーキ買って一人で食べるとか……キモいよう……えーん』
 おっしゃるとおりである。俺は耐えた。
『えーん、私、不幸……不幸だよう。こんなことなら誰にも買われずに廃棄処分になったほうがマシだったよお……うえええん』
 長らく俺は黙っていた。
『…………』
 やがてケーキは泣きやみ、どことなく俺のほうをちらちらとうかがう気配を見せた。
『……あの……』
 俺は黙っている。
『なんか……あの、怒ってる……?』
 怒ってなどいない、と俺は答えた。
『そう……』
 しばらくの間があったあとに、ぽつりぽつりとケーキは言った。
『さっきは少し、取り乱しちゃって……ごめんなさい。買ってもらえただけ、よかったよね。廃棄になった子たちもたくさんいたんだろうし』
 驚いたことに、そこでケーキは深々とため息をついた。
『私、なに高望みしちゃってたんだろう。ほんと……馬鹿みたい』
 そんなに自分を卑下するな、と俺は言った。
『なによ。キモいおっさんからそんな慰めを聞いてもキモいだけなんですけど。どうせ、どのクリスマスケーキでも良かったんでしょ? そもそもクリスマスケーキである必要もなかったんでしょ! 私よりも十円でも安いケーキがあったらそっちを買ってたんでしょっ?』
 逆上したクリスマスケーキの罵倒の言葉を、俺はただじっと聞いていた。
 クリスマスが終わったあとの晩に、クリスマスケーキから罵られる。
 ひどく奇妙な夜だと俺は思った。



『なんとか言いなさいよ』
――実はちょっと勘違いをしていたんだ。
 意を決して俺はそう言った。
『勘違いって……なんのことよ』
 俺は頭をかき、ケーキからほんの少し目を逸らしながら言った。
 うっかり日付を勘違いしていた。
 間違いだった。
 今日は二十六日なんかじゃない。つまり二十五日だ。クリスマスなんだよ、今日が。
 次第に矢継ぎ早になる俺のうそくさい言葉を――というか混じりっけなしの虚偽そのものの言葉を――クリスマスケーキは複雑な面持ちで聞いていた(ように見えた)
 さすがにこれは苦しかったか……と思いつつも、俺はなかばやけっぱちな気分になり、うろおぼえのクリスマスソングをがなりたてた。

 ジングルベル。
 ジングルベル。
 鈴が鳴る……。

『今日は楽しい、クリスマス……』

 俺のへたくそな歌に、ケーキが控えめに唱和した。
 ぷっ、くすくす……と、耐えかねたようにケーキが小さく吹き出す。
『ふふふ……やっぱり、そうよね。今日はクリスマス……私はこの日のために生まれたんだもの!』
 ああ、そうだ、と大きくうなずいてやる。
 するとクリスマスケーキは、嬉しげに笑い声をあげた。



 それからクリスマスケーキはずっと上機嫌にさまざまなクリスマスソングを歌った。
 俺はケーキに付属していたロウソクに火を灯し、慎重にケーキの上に飾りつけた。
 部屋を暗くしてみると、ほのかな橙色に彩られたケーキが、まるでこの世の主役のように輝いていた。
 それはなんとも幻想的な光景で、俺は素直に美しいと感じた。そうして、長らく忘れていた気持ちが胸の底からわきあがってくるのを感じた。
 くすぐったいような、甘ったるくて酸っぱいような、おかしな気分だった。

『……泣いているの?』

 俺は黙っていた。口を開くとそのことがばれてしまうからだ。
 しばらくの間、ケーキは小さくアヴェ・マリアをハミングしていた。
 小さなロウソクが照らし出すちっぽけな世界の隅々まで、それは子守唄のように響き、このうえなく優しく俺の耳朶を震わせた。
 やがて歌が終わり、ケーキは俺に問う。
『ねえ、いつ私を食べてくれるの?』
 俺は黙っている。
『ねえ』
 俺はやっとのことで口を開く。
 もったいなくて食べられない。
『えー、なにそれ』
 クリスマスが終わるまでにはきっと食べるよ、と俺は約束する。
『……ううん、いいよ。あんたが食べたいときに食べて。クリスマスケーキである前に、私は一個のケーキだもん。あんた、ケーキは好き?』
 大好きだよ、と俺は答える。
『そっか』
 そうしてケーキはまたしばらくハミングをつづけた。
 俺はそうやって輝きながら歌うクリスマスケーキを、ずっと見つめていた。

 やがて、短くなったロウソクからゆっくりと光が消えた。
 同時に、かぼそい歌声も途絶えた。
 部屋の中の唯一の明かりがなくなり、ちっぽけな闇と、俺と、俺の孤独だけが残された。
 それっきり、もうクリスマスケーキは言葉を発することはなかった。



 それが、昨年の冬のことだ。一年前の話。

 仕事を終え、珍しく寄り道をせずに帰った俺は、一年間ずっと冷凍庫に入れてあったクリスマスケーキをそっと取り出した。
 今日は十二月二十五日。
 正真正銘、まごうことなきクリスマスの日だった。
 氷づけになっていたケーキが解凍されるまで、俺はじっと待ちつづけた。
 やがて、あの日のようにロウソクを綺麗に飾ってやり、俺はその言葉を口にする。
 メリークリスマス。
 すると、

『……メリー、クリスマス』

 思ったよりもひかえめで恥ずかしげな声が聞こえた。

ナイフで刺されたがとくに何事もなかった話

2013/11/19

 人は中年になるとしきりに昔のことを思い出すようになる。少なくとも俺はよく思い出す。ああ、そういえば俺にも高校時代ってやつがあったよなあ、と高校を舞台にしたアニメなんかを観ながら思い返す。
 共学ではあったけれど女っ気は皆無だったし、部活とかで熱いバトルを繰り広げたりもしない凡愚きわまるハイスクールライフを送っていたが、そういえばナイフで刺されたことが一度だけあった。今も腹部に傷痕が残っている。

 高校三年生の、たしか秋ごろだったと思う。文化祭の準備に追われていた記憶がある。
 俺を刺したのは同じクラスのSくんという男子だ。よく言えば素朴でおとなしい、悪く言えば暗い感じの少年で、クラス内のヒエラルキーは低かった。暑苦しくて根暗なデブであるところの俺とSくんは自然に仲良くなり、よく本やゲームの貸し借りをしていたものだ。
 富野作品を愛していた彼から、俺は「ガイア・ギア」のラジオドラマCDだとか「逆襲のシャア」のVHSを借りたりしていた。
 彼から借りたスーパーファミコンのソフト「バトルロボット烈伝」で初めてダイターン3を知ったのもいい思い出だ。
「このゲームには隠し機体としてダイターン3というロボが出てくるんだ」
 ソフトを俺に渡しながら、Sくんは言った。古いアニメの知識を持たない俺は、そのロボットの名を聞いて首をかしげた。
「それはどんなロボットなんだい」
「なんというか、すごく……大胆なんだ」
「大胆なのか……」
 などとつぶやいて、俺たちはくすくすと笑い合った。

 そんなSくんがどうして俺を刺したのかというと、別段深い理由などはなくて、結論を言えば単なる事故だ。
 彼は刃渡り五、六センチ程度の小さな折りたたみナイフを常にポケットに入れて持ち歩いていた。そう書くとかなりヤバい人のように聞こえてしまうが、当時の俺はそのことについて特になにも思うところはなかった。俺と同様、年頃の高校生として平均的かそれ以上にひねくれて面倒なところもある男だったが、ことさらに気味の悪いやつだと思うこともなかったし、怖がることもなかった。なぜ彼がナイフを持つのか疑問に思うこともなかった。単なる個性、あるいは癖の一つとして割り切ってしまっていた。要するに俺は、鈍感な少年だったのだと思う。

 いつだったか彼がこっそり見せてくれた黒い刀身のナイフを手にして、俺は「玩具みたいだな」と感じた。家の台所にある果物ナイフのほうがはるかに武器として迫力がある。
 Sくんはときおり、そのナイフを握り込んで俺にギリギリのところまで突き出すような真似をすることがあった。仲のいい友人がふざけてパンチをするような感じで。
 Sくんには無論、本気で俺を傷付ける気などなかったはずだが、彼は訓練を受けたナイフの名手でもなく、むしろ人一倍視力が悪かった。
 そういうわけで、事故は起こるべくして起こった。とある秋の放課後、いつものように彼がふざけて突き出したナイフは俺の学生服とアンダーシャツをあっさり貫通して、みぞおちのあたりに滑り込んだ。
 Sくんはナイフを手元に戻していたが、おそらく刺した手応えをまったく感じていなかったのではないかと思う。刺された俺のほうも同様で、衝撃や痛みはまったくなかった。
 その数秒後、腹にかすかな違和感をおぼえて、手で触れるとべっとりと血が付いていた。これにはさすがに驚いた。
「あっ」「えっ」「わっ」
 Sくんと、その場に居合わせていっしょにダベっていたボンクラ仲間のAくんとWくんがへんな声を出した。
「これ、洒落にならん」
 と、俺は赤く染まった自分の指を見ながらつぶやいた。とりあえず保健室行ってくるわ、と言って、Sくんたちと別れた。誰か付き添ってくれてもよさそうなものだったが、今思えばきっと彼らも放心状態というか、それなりに気が動転していたのだろう。

 腹を押さえながら入った保健室にはバスケ部の下級生が何人かおり、まずまずの繁盛といった様子だった。普段保健室に訪れることなどないので、それが普通なのかどうかはわからなかった。
 バスケ部員の突き指かなにかの処置をしながら、保健の先生は入り口に立つ俺に目を向けた。あー、今ちょっと忙しいんだけど……という素振り。なんとなく空気を読んで、俺は保健室を辞した。あの場に割り込んでまで自分の処置を優先してもらうことに抵抗を感じたのだ。刃傷沙汰として騒ぎになってしまってはマズかろうという判断も少しあったと思う。
 仕方なく、俺は自分の家に帰ることにした。通学に使っているママチャリにまたがりペダルをこぐと、腹に引きつるような痛みが走った。おそるおそる、できるだけ腹筋に力が入らないようにしながら、いつもの倍近い時間をかけて自宅に帰り着いた。部屋の中で学生服を脱ぐと、白いアンダーシャツが真っ赤に染まっていて、それを見た母が「ちょ、どうしたの、それっ」と素っ頓狂な声を出した。とりあえず「自分で自分の腹にうっかりカッターを刺してしまった」というひどく苦しい説明をしつつ、シャツを着替えて近所の外科医院に行くことにした。
その小さな病院の先生にも同様の言い訳をしたのち、俺は腹の傷口にガラス棒を突っ込まれた。これはさすがに痛くて苦しかった。
「これ、五センチは入ってるよ」
 俺の血が付着したガラス棒を示しながら先生は言った。傷の深さが五センチにも達するということらしい。小指ぐらいなら楽に入ってしまうような深さだ。
「内臓(なか)まで達してるかどうかは、大きな病院じゃないと検査できないね。今、クルマを呼ぶから」
 そう言ってどこかに電話をかけると、数分もしないうちに遠くからサイレンの響きが近づいてきた。クルマというのは救急車のことだった。
 病院の入口で停まった救急車の後部から、救急隊員の人が車輪のついた担架を勢い良く引き出してきた。
「急患の方はどこですか?」
 と尋ねられて、俺はおずおずと「はい」と片手を挙げた。
 隊員は少し拍子抜けしたような顔で俺を見つめた。妙にばつの悪い気分になりつつ、隊員に付き添われて救急車に乗り込んだ。いちおう急患ということになっている俺を乗せた救急車は、けたたましくサイレンを鳴らしながら周囲の車を停止させ、赤信号を突っ切りまくった。そのすさまじい急行ぶりに、俺は思わず「あの、そんなに急がなくても……」と言いそうになってしまった。そもそも学校からチャリをこいでちんたら帰ってこれるほどの元気はあるわけで、今さらそんなに急いでも仕方なかろうにと思ったのだ。
 そうこう考えているうちに大きな総合病院に到着した。検査の結果、まあ予想通り内臓に達するような深い傷ではなく、消毒して縫合しておけば数週間ほどで問題なく治癒するということだった。
「お腹の肉が厚くてよかったね」
 と担当医は言い、俺は苦笑いを浮かべた。

 その日は大事をとって病院に泊まることになった。
 俗にいう入院というやつだ。生まれて初めての経験である。左腕に点滴を装着されたのだが、もちろんこれも初めての経験だ。トイレに行くときに点滴台をがらがらと引いていかなければならないのが非常にわずらわしかった。
 病室は広くて清潔で、俺のほかに数人の同室者がいた。そこは自分の家とも学校の教室とも違う、異質な空間だった。テレビや漫画で見た「病室」のイメージとは根本的に違う。というか、テレビや漫画では伝えきれない情報があるのだろう。あの独特の空気の匂いとか、重さをともなった静けさとか、名状しがたい泥にも似た気だるさのようなもの。
 病室での一夜が明け、朝が訪れると病室のスピーカーから看護師さんたちの生合唱とおぼしき賛美歌が流れてきてびっくりした。未だによくわからないが、どうやら経営母体が宗教系というかそういうアレの病院だったらしい。

 午前中で無事に退院し、午後からは普通にチャリに乗って登校した。
 Sくんはいつにも増して悪い顔色で「昨日からいつ俺の家に警察が来て捕まるかとびくびくしていたよ……」と言って、弱々しく笑った。そんなわけないじゃん、と俺も笑ったが、よく考えてみれば危ないところではあった。
 Sくんがナイフで俺の腹を突いたあのとき、もし俺が一歩分でも彼に近いところに立っていたら、どうなっていたかわからない。重傷に至るか、ひょっとすると死んでいたかもしれない。それによってSくんの人生も、変わっていたかもしれない。
 そう考えはしても、特別に恐怖を感じたりはしなかった。正直、うまく想像できなかったのだ。あるいは、やはり俺は鈍感だったのだろう。高いビルの窓から下を覗きこんだときのほうが、よっぽど恐ろしい。それは今に至るまで変わらない。
 たぶん己の人生の中でもっとも死に近づいた、あの日のことを思う。
 けれど、それを経てなにかが劇的に変わることはなかった。
 血まみれになったシャツは丸めて捨てられ、文化祭の準備は滞りなく進み、Sくんとは友人として卒業するまで変わりない関係をつづけた。
 ちなみに彼は、あの日以来さすがにナイフをもてあそぶことをやめていた。変化といえばそれぐらいだ。


RECENT ENTRY


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。